『AZ』13号
あげそうになった。通訳できるのは結局私一人ということになって、対話者の二倍はあたまを使い舌を回転させねばならない苦役に、私は音(ね)をあげたのである。「祭神はどなたであるか」「摂社末社の数と名称は」というような考証的質問を一々取次ぐのは、並たいていのことではない。私はあくびをし、いらいらし、果てにはこのような責苦に私を追い込んだ山蔭氏とエルベール夫人に敵意さえもつようになった。
 無報酬の仕事であることを百も承知のうえで、この研究旅行に参加した私の真意は、自分にもわからなかった。エルベール夫人と東京で初めて会ったとき、この二七、八になる美女がエジプト王朝の末孫であることも知らなかったが、内面から輝くその美しさに圧倒されたことは事実である。しかし、京都から淡路島、徳島から室戸岬と、行を共にするうちに、かの女とても聖女ではなく、エゴのくびきから脱出しようと必死にあがいている一個の求道者であることもわかってきた。八年間インドに暮し、ヨギの群にも身を投じ、猛禽の襲う山頂にも自若として静坐冥想に入り、コレラ菌の入った汚水をも平然と飲んだというかの女の信念は、たしかに本物である。しかし、かの女がかくも執拗に神道に喰いさがり、その秘密をさぐろうとするその姿には、真剣さとともに迷妄のあがきを、私は見たのである。
 私たちが高知に入ったとき、雨が降りかけていた。そして、私は自分の役廻りに窒息を感じ、その夜卒然としてこう言ったのである。
 「夫人よ、あなたの求道の態度は尊い。しかし私はあえて言う。あなたにとって神道は異質の存在であるが、私の血のなかには神道が流れている。私は神道の中に生き、神道は私の中に生きている。あなたは外側より神道の扉を叩き、内部に入ろうとしている。私はあなたよりも、神道の知識的把握において劣っているかもしれぬ。しかし、私は神道の本質をつかんでいる。」
 エジプト王族を父に、パリジェンヌを母にもった異国の女性は、憂わしげにひとみを曇らせて答えた。 
 「神道の本質、それは何かと思いますか?」
 「Nothingness 無です。なにもないことです」
 この私の言葉はかの女にとって大きなショックだったようだ。多額の私財を投じ、来る月も来る月も、神道探求の旅行に明け暮れたこの努力が、ただ一つの目標「無」のためになされたとは! そんな馬鹿なことがあろうか。無とは徒労のことではないか――西洋的思考にはそのようにしか思えない。
 私はたたみかけた。
 「神道は神学ではない。それは中心の無である。なにもないこと、からっぽの清浄さの体認である。それ以外はすべて “けがれ” です。」
 夫人は唇を噛んだ。それは否みようのない真理のようでもあり、またニヒリストの捨て鉢な宣言のようでもあった。それが果たして真理であれば、かの女は過去の努力と業績を全部否定し去らなければならない。夫人は沈黙をもって、私の与えた衝撃に耐えた。 
 高知で一時私は夫人を見棄てようと思った。神社伝承のくさぐさの細目を一々翻訳するわざに、私は疲れ切ったのである。第二義、第三義的と私が断ずることにこれ以上かかずらっていることは、時間の浪費以外の何ものでもないように思えた。日本にとって奇特な賓客かもしれぬ。神社本庁が全面的に協力し、藤沢教授や中西教授が献身的に奉仕したのも、かならずしもエルベール博士の世界的名声だけではあるまい。それも解っていた。夫妻の態度には、たしかに切実なもの、人を打つものがある。しかし、人情や義理では片付けられぬ世界もある。
 私は絶縁を宣言し、ひとり旅館の一室に休んだが、翌朝になって私の態度は軟化していた。私にとって無意義無価値と思われる旅行であるが、とにかくあと数日、デクノボウのように夫人のお相手をしよう。私の価値観とは無関係な一つの決定であった。それはどこか、神の至上命令のにおいさえした。五月下旬、私たちは高松から宇野に渡り、吉備津を最後の夜としたのである。

 私は一人旅が好きである。それは独りで生まれ、独りで死んで行くこの地上のかりそめの生活を、もっとも雄弁に象徴しているからである。
 旅が独りになると、私はもはや日程を決めぬ。旅がひとりでに流れて行く。私はそのコンベヤー・ベルトにのっかる。無執着、無動機の、その頼りなさを私は愛する。社会生活の緊縛はいちおうそこに在るが、私はそれらに捉えられることも逃れることも自由に決めうる立場に生きている。独り寝の淋しさはあっても、家庭や愛人たちは遠くにある。ウトウトといつのまにか私は眠りの国に行っている・・・・。
 朝が来る。その日の予定は、決めずに出来上がってゆく、生まれてゆく。私の衝動がそれを作ることもある。他人が示唆してくれることもある。それは全く人生の縮図のようだ。
 旅をして行くうちに、私は各土地に結びつけられて、その場所の方言を話し、その家の習慣に従い、その職業の約束どおりに生きている「一般生活者」の群を見る。私は人生を縦断し、その多彩な断面図の上に私自身の「砕片」を発見する。私はその人々の一人一人であり、同時にそのうちのだれ一人とも同一化しない。
 旅をしている私は、人生を見おろしている神の眼が自分のなかに働らいているのではないかという気がフッとする。そして、旅を終えたときの私は、たしかに変化している。成長もしている。旅をしてきた私は、ふたたび「定着」の生活にもどるが、それを「仮りの一幕」と見る新たな眼を獲得している。形は固定していても、私の魂はまだ旅をつづけている。

 ある日の夕方、私は下関に着いた。
 神田光輪氏が駅に出迎えてくれていた。神田氏はAZの新しい同胞であるが、私になぐり込み的手紙をくれた人だ。「会いに来てくれ」ー 長い手紙も結局はその一句につきる。魂を裸かにして待っている。空間的距離なんかどうでもいいはず。リンサンの生活リズムを狂わしてくれ。二つの魂がぶつかったときの「火花」を見たい。金銭的裏付けなどはない。片道ぐらいの旅費はもてるかもしれぬ。
 その率直な切り込みかたが気に入った。その男性的決断力の小気味よさとウラハラに、私は恋を告白した女の棄て身の情熱に似た純粋さを感じた。私はむろん動いたのである。
 東京を出たのが5月14日、勤め先の日本石油からもらった二週間の休暇は、はるかにオーバーしそうだ。しかし高給の勤め口を失うかもしれぬという打算は、この場合ゼロのはたらきしかない。これと同じ二者択一で、九年前の私は大学の学年末試験を振って恋人に逢いに行った。三つ児の魂は全く百までである。私はいつも、みずから人生軌道を狂わしてはそのたびに、新しい進路を見つけ、脱皮をそつづけてきた。私には直線というものがない。世渡り上手の柔軟曲線もない。いつも断続線である。稲妻コースである。それでも私は生きて行く。
 対岸に九州の山々が見える下関の港、その夕景は美しかった。大小の船が止まったり進んだりしている。遠くに南方の異国僧が建てた仏舎利塔が光っていた。ことば少なに神田氏は自家用のダットサンのハンドルを切って行く。吉川英治にちょっと似た横顔である。
 神田氏は長府町八幡に双葉商会という歯科器械のビジネスをやっておられる。その二階に案内されると、香の煙りがたなびいて静かな雰囲気に包まれた。
 ポツポツと語る氏のことばによると、氏は長いあいだ生長の家の信奉者だったそうである。過ぐる日、谷口雅春氏が下関に来講したとき、会見を申し込んだ。いったん会うと