『AZ』13号
                                                 釘宮義人

 戦前の話だが、私の親族に一人の傑物的人物の伯父が居た。やせた小柄な男でメガネをかけた姿はガンジーに似ていたので当時の新聞記者は彼を無教会のガンジーと呼んだ。彼は無教会主義の烈々たるクリスチャンだったからである。彼の家に行くと内村鑑三の下手くそな字で「禁酒非戦」というガクがかかっていたので当時の事とて僕はどぎもを抜かれた。僕が後年非戦論に走ったり世間に抗して孤独に生きる道を辿る第一の影響をここでうけたのである。伯父は若い時は放蕩に身を持ちくずし地方の素封家であったその家の財産を使い果たし朝鮮に逃げて海賊のピンをはねる仕事をしたという。多分役人になって海賊共からワイロをせしめたのであろう。そういう彼が身をもちなおして、既に僕等が知っている時の伯父は宴会に行っても水を飲んで酒の相手をし乍(いや違う、酒のみどもをヘイゲイしながらといおう)地方政治をリードしていた男である。彼が死んだのは昭和十何年かの二月二十七日で例の二、二六事件の次の日であった。伯父の死は急性肺炎であったけれども、彼が死んだという電報が東京に飛んだ時、東京の友人達はテッキリ彼も東京と同じようなテロ事件でやられたものと早合点して度を失ったという。そういう心配を抱かざるをえないような人間であった。
 彼の葬式の日、式場では早耳の連中が2、26事件とあとでいわれるようになった、あの青年将校たちのクーデターの詳報をみんなに話して聞かせていた。そして一様にみんながいう事は「エライ時代になったですね。ガンジーさん(と伯父のニックネームを呼んで)はいい時に死にましたよ」という事であった。終戦後、伯父の命日にみんなで集まって彼を偲んだ時「ああ今彼が生きていたら、どんなにスバラシイだろう」と口々に歎じたのと対照的な事である。
 さて、この伯父の事だが、大の本好きで毎日大量の新刊書を買い込む。家中が本だらけであったから、僕も又本好きだ。学校をサボってでも伯父の家に行って本を読む。ファーブルの昆虫記やマルクス、エンゲルス全集にふれたのも伯父の家であった。伯父は子供がなかったのでそういう本好きのオイが可愛くてたまらぬらしくよく近所から弁当を取ってくれては、自分は忙しそうに何やらいろいろな会合に出かけていくのであった。
 伯父は日曜日だけは一切の義務を止めた。そしてキリスト教の集会をする。伯父は商人の家に生まれ、大学に行き、中途退学して新聞記者になり、それから生家に帰って商売をやり、失敗して朝鮮にわたり・・・・・などという経歴の男で、どこから見ても伝道者風な人ではなかったが、しかし全く伝道に熱心であった。彼の主宰する集会は全くの寺子屋式で、素人くさい所が真骨頂である。僕はその集会が好きであった。僕はまだ子供で言葉は何が何だかサッパリ判らなかった。しかし伯父が祈っている時に、その部屋に入るとイキナリ熱線が僕の體を貫通するような思いがした。
 全身をゆすぶるこまかな振動が僕を包み、また僕を抱きかかえるようにして僕はボーッと上気して了う。僕は大人のいる処に入りこむのでチョッとアガルのかなと思っていた。しかし今考えると、それは違う。ある高いバイブレーションに僕はひかれたもののように伯父の家に通ったのであったのだ。
 伯父には古武士の風格があった。それは内村鑑三バリの無教会キリスト教の伝統かもしれぬ。したわしい人物であり乍らも、どことなく感じる畏怖の感をぬぐい切れなかった。伯父の家に入るトタン、僕はシュンとしてオトナシそうな少年になったものである。
 さて、或る日の事だ。例により僕はゲンシュクな顔をして(今でも伊勢神宮やカソリックの寺院に行くとそんな顔をすることであろう)伯父の家に入るとあにはからん、シャシャンガシャンと手拍子よろしく東京音頭(or さくらオンド)のレコードがかかっている。そして伯父は関西の商人達がよくしている(関東でもするかもしれんが)白ネルの腰まきをして双肌ぬいで、周囲が書棚になっている部屋の中でおどっているのである。僕より年上の女子師範に入っていたメイがいたが、その(つまり僕の従姉)彼女がレコードの説明書を見てはおどりの手ほどきをしている。伯父はそれを一生懸命まねて練習している。さすが昔取ったキネズカで若い時の放蕩三昧のおかげかなかなか手つきがよい。
 「義人お前もやれ」
と僕にすすめるが、一通りおどれるようになっている連中のなかに入ってブキッチョに初手から習う位てれる事は無い。僕は何となくハズミを失ってとうとうそのおどりのグループに加わらずそばから見ていた。
 僕はそれ以後おどり劣等感に陥って今に至るまで體がうまく動かないという後日談?がある。
 「このおどりはいいぜ。こいつは確かにはやるな」
と汗をかきかき伯父はいう。たしかにその後このオンドものが一世をフービするのである。とにかく伯父はこういう事について見通しはよかった。
 ところでゲンシュクな顔を作って伯父の家に行った僕の心はその日七転八倒する。有志達の宴会に行っても酒一滴のまない伯父、そういうピューリタンのような伯父しか知らなかった僕には、いつもの「マジメ」な伯父がしごくくだけてのんびりしているのが、若い僕には「フマジメ」に見えたというわけだ。
 この時の伯父の姿が、本当に判るのはズッと後年の事である。伯父の魂の中に生きていた自由の霊が僕の中に生き始めてその事が初めてよく判った。旧約聖書の中で予言者サムエルがサウルに云う、「もし聖霊をうけたら、もう案じることはない。手にあたるにまかせて事をやりなさい」と。手あたり次第に何をしてもよい自由さ、これがなければ生きている甲斐は本当はない。
 「ドドンパッ」とおどっているシルエットをテレビで見てい乍ら、僕はふと今あの伯父の東京音頭を思い出したのである。「どこか似ているかナア」「何かしら似ているなア」と僕は思う。もう一度旧約聖書の事を書くが、ダビデ王がオミコシをエルサレムの町におむかえして余りに嬉しくなったのでスソをまくっておどりまわり上品なおキサキ様にたしなめられた時、嬉しい時におどるのが何が悪いと、ハダカおどりもしかねまじき勢いであったという。
 上気して夢中になって、その中にとけ込んで、おどっている時のあの「張りと呆け」。あれで一生を生き通したいと思うな。
 手にあたるにまかせて事をなすというサウルの人生、神を身近に感じておどらずにいられないダビデの人生、あのゲンシュクなと僕を思い込ませていた寺子屋の中でシャシャンがシャンとおどっていた伯父の人生、そして今テレビで見ている「ドドンパ」のリズムにうかれるシルエット。なんだか相似性がある。
 岩走る渓谷の流れのように、僕も音たかくせせらいで、この人生をおどるようにして生きようかな。熟練した職人の指のように遊んでいるかの如く、やわらかでいて而も自在、つまり緊張と凝視が共に内在し、張りと呆けが同居している・而も自分をみている・そういう弁証法的存在の生だな。
 本当だ。僕はたしかにそういうふうに今生きているわい。
                                             (36.6.10)
6 ドドンパ