『AZ』13号
                                                 釘宮義人

 あるキリスト教の宣教師が、
「あなたは神を信じますか、どうですか。人間はあれか、これかと答える以外ありません、さあ、あなたはどうです。信じるならば救われます。信じないならば救われません。
あなたが”我信ず”といえば救われます。そういえないのならばあなたは信じていないのです。さア答えなさい」
とある求道者に迫ったという事です。
 その人はその時「信じます」といえばいえないこともないけれど、そういう言葉にはどこかウツロで偽りのものがあるようだし、また仮に今信じていると思っていても迫害だの嘲笑だのとこの世の事情によってはこのくらいの信仰では長つづきしそうにないし、そうかといってまんざら信じていないというわけでもないしと思い迷って、さぞかし返答に困ったろうと同情しました。
 その宣教師は、「信じる」ということが、我々の意志で「我信ず」といってしまえば出来上ることだと思っているようです。しかし人間の決心というものが如何にはかないものであるかということを知っている人は、そうカンタンにはいい切れないのですね。
 イエスが「誓うなかれ」といいましたが本当にそうです。誓ってはならないというよりは、人間は誓うことができないのです。人をいつわることはまアゆるせるが、自らをいつわって、それに気づかぬ人は神もこれを赦すことができません(神の不可能です)。
 例をあげてみましょう。ここに相思相愛のカップルがあるとします。永遠の愛を誓って結婚します。そして次の日か、或は何年かあとに、男の(或は女の)心がかわって他に移ったとします。決して心がわりしようと思って心がかわったのではなく、思わず(彼の意志に反して)かわったのです。彼がその心がわりを表明することは(いや表明もなくても)彼はかっての誓いを破ったことでもあるし、かといってその心がわりを相手に知らせぬことは芝居であり偽善であってそれ自体「愛」ということの真実要求性に反することです。その時彼は(又は彼女は)どうすればいいのです。そしてその責任はだれが負うのです。
 これは多くの恋愛悲劇の素因ですし、人間の持っている大きな悩みです。心がすでに変っているのに、相かわらず愛している格好をして、それで真実愛しているのだと人をもだまし自らもだまされるタチの人はそれでいいが、前述のような心の手のつけようもない変化自在ぶりにホンロウされたことのある人は、さきほどの宣教師の言葉 「信じますか、どうですか。さア一言信じるといえば救われるのです。キリキリ返事をせい」式の伝道ぶりには本当は閉口するのです。
 こういう時、人によっては、「ハイ信じます」とキッパリいってみたトタン、その寸前アイマイだった心が本当に信仰に入っているということもおこりますから、伝道のメソッドとしては前述の宣教師のやり方で一応成功することがあるのですね。外人宣教師は一体にザツだからこういう型のが多いのです。
 多くの人が、信念と信仰をゴッチャにしている(宗教と道徳をゴッチャにしているくらいに)意識に表面意識と潜在意識がある。同じく信念も表面意識でおこるものと潜在意識で起るものがあります。表面意識で強固に同一観念を固執することを信念といい、潜在意識で思わずしらず信念されているものを信仰とよぶことにでもしましょうか、そうすると少しは信念と信仰の差が分ります。
 多くの宗教が、いまだに信念の宗教にすぎません。信念の人は意地をはって時にはエラク見えますが周囲の人にとっては肩がわり気分が緊張しメイワクな存在であることが多いのです。
 信仰の人は時には定見がなく、ヌラリクラリとしていて頼りない人のようですが、実はつきあっていてあたたかい、楽しい人が多いのです。まして信仰の人とは品行方正、酒をのまず煙草ものまぬという人のことではありません。時にはアヘンをのみ、アヘンをやめようと思ってもやめられず、だからムリにやめようともせず、静かに天命を待っている信仰の人がいるかもしれません。
 あなたが、何教の人であろうと又無宗教の人であろうとかまいません、ただ意地を張る頑固な老化現象を来たしたような「信念」の人にならないで、ヒョウヒョウと人を赦し、愛しいたわり、至ってノンキに生きていく<信仰>の人になることを望みます。地球上には終末的様相がたちこめていますけれど、右のような人にとっては、この地球も楽園ですね。

 もし神様というものがありますなら、我らは神のよい子(エリート)意識を持つのではなく(馬鹿の子ほどかわいいというような)神に可愛がられる愛くるしい神の子意識を持ちたいと思うのです。

 (これは2月28日(1961年)に大分を出てまず高知大学の助教授橋本先生を手始めに日本を東北地方まで縦断旅行した僕のいわゆる「旅する手紙」の第一号です。これは10人程廻って再び僕の手許に舞いもどって来ました、それを再録しました)
7 「信じる」という事について
            (触発された自覚への批判を乞う)

 興味ある人、麟先生を迎えた下関駅のホーム。群衆の流れのなかから、イメージの「その人」を求める。歩を留めて、ジッと見つめている柔和な微笑がそこにある。急いで近寄ってみた。やはり「その人」だった。文章で散見するスマートさは感じられないが、重厚な思索型と眼に映った。ノー・ネクタイの気楽なポーズは、予想どおりで好印象を受け、私の心に解放を与えた。肌のキメの細かさは繊細な神経を思わせ、顔貌のやや荒れ気味なのは、世の荒波から塩風をうけたゆえか、鍛えた強靭さをその風貌はそのまま素朴な人なつこさを感じさせ、初対面とは思えぬ寛いだ気分にさせる無条件の好もしさだ。
 あとで寛ぎの話に触れたとき、彼の言葉は含蓄深かった。緊張は疲労を招く。ことに多忙な生活者はモタないから楽にしている。人生に対する自信のほどがうかがわれ、頼もしい言葉だった。実際、緊張、改まった言葉、慎重な論理には悩まされる。知性には訴えても心に響かず、やがて心身の疲労を招く。自然の言葉は屈折せず、スーッと心にひびくのだ。二十一世紀的思想家、十菱先生の刺激的名論卓説を幾分期待していた私、指導者意識の希薄なリンサンの柔軟性にはとまどい、底知れぬものを直感した。提起しかけた質問条項は、彼の物静かな微笑の前にひとつひとつ消えて行き、いつのまにか全部が雲散霧消した。しかし問題解決ではない。奇妙な現象。同席した数人に対して、リンサンから積極的発言がない。彼は一同の心を読んでいる。心を澄ましている。そのうち、静かに語りだすとき、彼が心で語っていることを発見した。皆これに気がついて、あらためて注視する。
 まてよ、リンサンは遠来の珍客だ。もっと寛いでいただくのが本意のはずだ、などと思い、
8 十菱先生を識ったその日から