『AZ』13号
ふと彼を見ると、おお、安心させる。彼はいとも楽な姿勢、ヨガ的整体運動に通じるような動きを、随時試みている。私はひとりでにほほえましくなり、尊称を奉る。「あくびする冥想家」と、彼はいう。彼はいう、最近あまり読書しないと。目前の様子をみると、さもあらんと思う。読むべき書はおおむね古典だし、古典のめぼしいところは過去にたいてい眼をとおして来たらしいから。
 彼はいわゆる宗教家・思想家・社会運動家と、冠称をつけて呼ばれるのを好まない。何々家というのはふさわしくない。大人だ。あまり類のないそれだ。なぜ彼が大人であるのか、追及したくなった。彼は経験以上の世界を知っている。謎を、覚者は微妙な自然のささやきを単的に感得する。その感受性・英知はどこから来るのか!
 たまたま、地方で出色の碩学であり、熱膓もって自然を徹見した導師であり、畏友でもある一人物、Nを誘った。両者の対坐は対照的だった。一方は端然と正座、微動もせず、その気魄は、山の荒法師の構え、他方リンさんはほおづえついた無雑作なポーズ、法師は鉄扇を法衣下より突き出す。みがき上げた鉄扇が鋭くキラリと光る。私は両者が究極の一点で交わるのを心に念じながら、異常な関心をもって両者を見守った。世の哲学者・宗教家は異次元の世界の住人だが、リンさんは道徳家型でもなく、平凡な隣人だ。不思議なのは、善悪不二、価値判断も超えて、随時随所に主となる行き方。対者より一歩ずつ先んじている。兄貴とでもいった感じだ。わずか一足一歩だが、人生では、この相違で万事が決する。
 彼を決定的に了解したのは、十菱夫人からの彼へのたよりだった。主人不在中の雑事には一言も触れず、全文が十菱麟の内在の神を讃える一編の詩であった。内なる神の導きのままに、主人が語らんことを祈るとあり、私は激しい感動で思わず涙を押さえた。十菱麟さま、あなたは夫人を通じて、すべての善きものを得ている幸福者だった。新しい発見だった。
 そうだった。自分が本当に会いたかった人、それは幸福な人、美しい人だった。英雄ではなかった。先哲がちまたを尋ね回ったその人、真人をはっきり知らしめたのは、「真人の讃歌」だった。限りなき善意に生きんとする人、その一家だった。陰陽合体、大地に根を下したAZは、無限に進展するであろう。それにつけても、親鸞聖人の「罪悪深重の凡夫」以外の何物でもない「われ」を鏡に写して、胸うずく想いと、真人に対する感激と、二様の去来する感情が、激しくいつまでも心を揺り続けた。
 十菱先生よ、あなたは大衆という泥沼に足を入れた。いまさら後に引けない。前進あるのみ。あなたには恩寵がある。正しき先導者であり、暖かく理解の衣で包む御一家がある。AZ同胞がいる。そこにも、ここにもいる。リンさんよ行け! ただ一筋の光を見つめて、行け! あなたは行くより他に生きる道はないのだ。われわれは敢然と宣言しよう。リンさん、あなたの退路は同胞が断ったのだ。不思議なAZは、創造者リンさんさえも引きずり出す魔力の持主だった。あなたの内なる心、恩寵は、珍重すべきその才能すらも圧倒し包んでいる。賢明なる沈黙者よ、吼えよ! 獅子(仏)の本領を発揮して野にいでよ。山に駈け登れ。吼えよ! 躊躇したもうな。あなたは内心の声に忠実であれ。来るベき世界を民衆に知らしめよ。もてるものをAZ同胞会の前に解放せよ。一本のペンのみで、外面的にAZのプロセスを説明するだけでは、いかに迫真性をもたせようとまだ弱い。それほど人類は蒙昧なのだ。言葉がよくない、訂正しよう。神が人間に個性を与え、多様性を創り出したのだと。だからこの仕事にやりがいがあろうというもの。
 しかし人間は疲れる。過去の先覚者も疲れ、傷ついた。イエスでさえも。だが、神は疲れない。英知は人間のそとにある心の触点を知っている。洞察は小気味よく喝破するであろう。しかし英知の窓を開けぬ人間は、探求するより他ない。探求は魂の信仰である。私は、現代は多くの民衆の魂の渇仰が、無意識に思想の混乱を生じたのではないかと感じる。この魂の叫びを触発するのがAZである。内面のあるものを剔抉して放り出し、個性に適切なことば・エッセイをぶち込む。これは不可能ではあるまい。一般社会の思想運動・宗団組織を見ると、それぞれ規範的法則とでもいうようなものがあり、それに個人を当てはめていこうとする。心理的に弱体化した人は追従するが、本来自由な個性は抵抗を感じる。たとえ神の名においてでも、抑圧はついに甘い悪魔と呼ぶ。民衆の求めるものを与えよ。余分なものは無益だ。
 AZ以前に形成しつつあった私なりの求め方、真如研究会について一言。あとで知ったAZと内容的に同じ次元のものだった。AZのニュアンスに地方色をもり上げ、心の振動数の近い者が集まり、その振幅を拡げて行き、共通の場を見い出しあう。AZの円環運動である。それ以外のものではありえない。幅広い層にアピールする結縁の手段ともいえる。諸賢の御高見を乞う。
 AZはどうにか理解できても、真につかむことはむずかしい。それはつねに動いていて、捉えがたいからだ。実在は、真如は「法」であるが、そこにはないのが本当なのだ。それゆえに、AZの地方組織は問題だ。誤解は恐れないが、慎重さが必要だ。リンさんを発見した同胞にお願いします。リンさんは教祖ではない。彼も望むまい。そんなものに仕立てるのはうそだ。彼はただひとり屹立している。このことを銘感されたい。だが、同胞は、彼のあとに続いている自分を再発見するであろう。
  ※ すべりこみのページ ※
★新らしい同胞の皆さんから、『AZ』創刊以来の旧号を全部欲しいという依頼をたびたび受けますが、これは会の中央事務所でも入手困難なのです。将来『AZ全集』とでもしてまとめて印刷するまでは、皆さんの住所の近くにいる創刊以来の古い同胞と連絡し、貸してもらうよりほかないと思います。

☆宮崎五郎先生指導の“手のひら療治”実修会は東京で月数回やっていますが、地方の希望者のために出張講習もなさるそうです。
  連絡先は 新宿区若松町84(熊野)事務局牛込研修会 (電話341−7288)

★リンサンの使用ずみ原稿、引きつづき贈呈中です。筆蹟には思想の「呼吸」が脈打っているというので好評です。返信料同封お申し込みください。十年後に一枚十万円ぐらいになるという人もいるが、ハテどうかな?

☆オカラを食べて下さい!
オカラ、すなわち豆腐粕は腸内を清浄にする作用があります。宿便の人や、皮膚のきたない人は月に二、三度たべて下さい。眼球が充血している人は一日置きに食べる必要があります。調理に際して、ニンジンをいれるともっとよいのです。
 (『土と文化』六月号より)

☆ある人が六月初め渋谷の本のデパート大盛堂(七階まで本屋)に行ってみたら、『AZの誕生』が今月の“ベストセラー”の棚にのっていたということです。時代はやっぱり求めていたのか!