<季刊スブド>
やっていた。文六さんにとって、手塩にかけて育てた娘はかれの過去半生の一つの重要部分を成していたのだろう。
 “寄金と私”とモジってみても、私には“寄金”をムスメのようにかわいがって育てた想い出がない。これが娘だとしたら、自由放任の棄て子育てをしただけのような気がする。
 昭和29・30年頃の日本スブド草創期には、会員数もわずかであったから、会場費の捻出は私にとって相当手痛い経済的負担であった。「貧乏者の子沢山」というたとえどおり、私は一番の子持ちで、しかも月給はわずか一万五〜六千円のヤットコ教師であったから、聖徳太子一枚は全くの「お宝」であった。この事情はおそらく当時の会員のほとんどに当てはまったのではないかと思う。そして、もちろん誰もイヤな顔せず、充分の額を月々出していた。「寄金」は純粋に「喜金」だった。
 私が精神病院にブチ込まれたころの前後は、事実上スブドのグループ活動は停止していたから、寄金の問題からはしばらく遠ざかっていた。
 昭和33年ごろから、ぼつぼつ新しいメンバーによるグループ活動が再開され、昭和34年バパの来朝とともに日本スブドの組織が定まり、スブド独特の「寄金理念」が明らかにされた。過去に団体作りの経験がある新会員たちからは、しばしばこの「寄金制度」の危なっかしさについて文句が出たが、曲りなりにもスブド寄金の意義は理解され、こんにちに到っている。
 今でも忘れられないのは、バパ離日直後の委員会で、大勢がガッチリした定額徴収法に傾きかけたとき、私と建部氏が目くばせを交わし、ついに建部氏が敢然と立って、
「金が集まらずにスブドのグループ活動が立ち行かなくなれば、それが神の意志だとして、そのまま受けるべきだ」
 という旨の大胆この上もない爆弾宣言をおこない、一同シュンとするとともに、やっぱりそれが本当だという気になった。
 そのころから、大森健生氏の発案になる「寄金箱」が採用され、修練会場の片すみに毎回その雄姿をみせるようになった。
 しかし会の仕事がふえるにつれて、寄金収入だけでは会場費ぐらいがまかなえるにすぎず、借財返済その他の大口の支払いに窮したので、会員一般から別に「本格的寄金」を受けるようになった。
 それでも足りなくなると、余裕のある会員有志が集まって、一口千円というような「非公式」の維持会員制を採ったりして、あの手この手をつくしたようだが、私はその詳細をあまりよく知らない。
 私の「寄金史」はと、ふり返ると、どうも私はロクに寄金らしいものをしていない。各地各所の会場で、思い出すかぎりにおいて、小銭をチョコチョコ入れるだけで、維持会員になったこともなく、なにかで大口の金もうけをしてもポンと1万円投げ出すといった「美挙」に及んだこともない。この怠慢はどうしたものだろう。オレはケチなのかな、と思ったりする。
 その代わり(と言ったらおかしいが)、時は金なりの「時」やら、できるかぎりの「知的エネルギー」は、ほとんどいつもスブドに投入している。スブドが私の生活の根幹である以上、私はスブドに「いのち」の継続寄付をしていることはまちがいない。一定の金額を月々出して能事畢れりという気持にはどうしてもなれないし、また「良い手本」を示して、他の会員の「寄付義務感」をつよめるという殊勝な心がけもない。寄金に関するかぎり、私はあまりいい会員ではない。
 おそらく、月に4、5百円は寄金箱に入れているだろうが、これで少いとも多いとも感じない。また、支部直通ルートによる寄金は今のところゼロであるが、その分は、外国の雑誌にタダでスブドの記事を書いたり、全国に網を張って選ばれた魂をスブドに送り込むという「すなどり活動」で埋め合わせをしているような気もしている。
 いずれにせよ、私はたいしてソロバンもはじかず、また天秤の指針にいつも注意しているわけでもない。すくなくとも、この寄付問題に限らず、なにごとも私は義務感を持たぬほうなので、ぬけぬけとこんなスブド会員もおりますというリポートをしたためたわけだ。
ひと神の物をぬすむことをせんや、されど、汝らはわがものをぬすめり、汝らは又何において汝の物をぬすみしやといえり、十分の一およびささげ物においてなり
                 (マラキ書3−8)
オープンは1回ですむか
 2年も前のことだが、九州のある同胞が開魂のあとにこんな質問をした。
 「オープンはあと何回ぐらいやればすみますか?」
 私は思わず笑いかけた。そのころの私の観念では、オープンとは初回伝達、つまり一回目のラティハンのことで、本人が意識するしないにかかわらず、開魂は完了していると信じていたし、一般の理解と定義もそのようであったからだ。
 これは今でもあやまりだとは思っていない。ピンの先で突いたほどの「ほころび」でも、暗闇に光が射しこむだけの「穴」があいた以上、魂が開いたのは事実である。
 しかし、口先で「全托」を言うのは易しくても、実際には百分の一托や十分の一托の「部分托」でお茶をにごしているのが、われわれの大半であるように、開魂もキリがないようにだんだん思えてきたのである。
 それは、特に新人会員の開魂に立合うとき、自分自身もあらたにオープンされるような実感があることと、通常ラティハンでも時により、初めて神の前に立たされた感じのすることがよくあるからだ。
 また、いわゆるオープンを受けた日の前後に大きな断層があったと同じように 、それからあとの永いスブド生活においても、幾十回となく「断層的飛躍」を体験することがあった。それは普通の意味のオープンと、質的には全く同じことであるところをみると、絶対的な一生一度の転回点としてのみオープン体験を考えることが少々不自然に感じられてきたのである。
 少し具体的にいえば、開魂後2年を経たX氏よりも、スブドにまだ触れていな