<季刊スブド>
いY氏の魂のほうが、より広くひらいているという場合があるのではないかという、疑問だ。
 「あの人はスブド会員なのに、どうしてあの欠点がなかなか直らないのかな?」
 と人々が批判するその人の「欠点」とは、神の光に照らされていない「魂の暗黒部」、いわば「未開魂の部分」のことではないか。
 毎回オープンの心がけでラティハンに体当たりすることは、たしかにラティハンのマンネリズムを破る。つまり、自分の中の「神に抵抗する部分」をハッキリ見て、それを「投げ出す」のである。われわれが「全托」と訳す言葉は英語で surrender というが、それは sur (=sub) 、つまり「下」という接頭辞と、render すなわち「返す」という動詞が結合したことばで、「下から上の者に返す」というのが原義らしい。だから、敵に城を明け渡すとか、地位や特権を放棄するとかいう場合に、ひろくサレンダーが用いられる。
 これをスブドにもってくると、思考、意志、感情というわれわれの「持ち物」を、その本来の所有者である神に「奉還」するのが、欧米人の理解する「全托」の意味なのである。だから、われわれが平俗に「君にまかせるよ」の任せるよりも、サレンダーの語意のほうがより積極的であるようだ。自発的に「明け渡して」向うに「やってしまう」決断は、あいまいに「任せ」ておいてまたあとで文句を言うのとでは違うようだ。
 われわれの思考、意思、感情、欲望を脇にのけておいてラティハンに入る行為の目的は、バパによると次のようになる。
 「それらが浄められるようにするためである。なぜなら、それら(知能、心情、欲望)は神によって浄められ用いられる必要があるからである。われわれの持つ全器官は、われわれのすべてに行きわたる生命力によって滲透されることが必要なのだ。」(第3回パリ講話)
 「スブド・クロニクル」1961年5月号に、チリのサンチャゴに住むソニア・ハルネッカー夫人の体験記がのっているが、そのなかに、次のような一節がある。
 「1959年に、私と夫はそろってオープンを受けました。私の体験は奇妙な、苦痛にみち、また強いものでしたが、夫のほうは何も感じなかったそうです。夫はバパに会いに行き、観光旅行にお連れすることになりました。そのとき、夫は機会をみつけて、自分が果たしてオープンされたかどうか尋ねました。バパの答えは、“ああ、少しばかり”というのでした。
 その晩のラティハンで、夫はヘルパーに任命され、バパは夫の前にしばらく立ったまま、夫の胸部に触れました。このあとで、私が何か感じたかときくと、やはり何もないと夫は答えました。(79・80頁)
 この夫はその後3ヶ月でラティハンをやめたが、それはハルネッカー夫妻の夫婦関係がはなはだしく激烈になったためらしい。しかし、不思議にいつのまにか、家庭内に新しい平和が生まれてきて、同夫人はある夜、全身に強力な電流が貫通したような体験をもち、この時かぎりハルネッカー家のあらゆる問題が拭い去られたと報告している。
 全托が文字どおりの全托になるまで、また、開魂が文字どおりの開魂になるまで、われわれは苦しい山道をのりこえて進まねばならない。
 そして、スブドは安易は「全托気分」の時間つぶしではなく、未浄化の我との厳しい対面、またそれに伴う苦痛と剥離の長い道程であることを知らされる。
                                           (1961.8.3)

 
ムハマッド・スブーから東京の
  スブド大会出席者全員によせるメッセージ
訳:十菱 麟
 男女会員のみなさん。まず最初に、バパはこの大会に出席されたすべての方々に挨拶を送ります。そしてこの大会が、みなさんすべてにとって満足すべき結果を生むように、また、みなさんすべてに大きな恵みがありますように希望しております。
 この挨拶にそえて、バパは原稿を用意いたしまして、スブドの霊的修練はどのような道をたどるものか、またその状態はどういうものであるかということについて、みなさんがすでに受け、また経験をしたところのラティハンについて、説明をいたしましょう。
 みなさんがすべて体験によってご承知と思いますが、スブドの霊的修練は、心や頭の作用によって引き起こされるものではなく、心や頭のはたらきが停止したとき、あるいは、心や頭のはたらきが静かになったときに、おのずから与えられる経験であります。それゆえ、ラティハンにおいては内部の真の自我が活動を始めるのでありますが、これは神聖な生命力に触発されて起こるものであり、したがって、心や頭の思考想像作用の影響力から切り離されているものであることは、みなさんにはっきりとわかるようになろうと思います。おそらく、みなさんがすべておわかりになっておらえるように、人間の心と頭は低いさまざまの力のからみ合った場となり、そのような低次の力の道具になっております。それゆえ、内部の真の自己を生き生きとさせるものは、この生命力であって、この修練においてひき起こされるさまざまの運動は、低い力の影響力から引き離された源から出てきております。このような源から出てくる力によって、われわれは完全に意識を保ったままでその恵みを受けることができます。このように、霊的修練を通じて受けることができるという能力は非常に大きな価値をもった恵みでありまして、このような恵みを得ようとすれば、普通は非常な努力と犠牲を払い、いろいろの欲望を断念し、人間的な幸福をさし控え、睡眠や食物を節することによって、ようやく得られるものであります。ところがスブドの霊的修練によりますと、大した努力もなく、また睡眠や食物やその他どんな種類の人間的な幸福をさし控えることなしに、このような状態に達することができます。そしてこれは、実に全能なる神の恩寵であります。われわれが霊的ラティハンにおいて受けるところのさまざまの事柄について考えるならば、これは全く驚くべきすばらしいことと言うことができましょう。
 われわれが経験することはすべて、心や頭の能力によっては捉えられないものであります。心と頭のはたらきの性質として、ラティハンを行なったのち、自分の身に起こった事柄について、それはいったいどういう意味であろうかと絶えずその意味を問いただしたがるものであります。これは人間の心と頭の本来の性質であります。でありますから、体験のなかに起こったことはすべて思考推理作用の対象になるものであります。このような心と頭のはたらきはまちがったものではありませんし、そのことについて心や頭の作用を責めることはできません。なぜならば、この思考や感情は、われわれの生活において起こるさまざまの事柄について考える場合に役立つところの道具だからであります。しかしながら、ラティハンにおいては、われわれは全能なる神の力に直面していることを忘れないでいてもらいたいと思います。すなわち、ラティハンにおいて、われわれはわれわれの全生命のすべてを知っている一つの大きな存在に直面しているのであります。このような場合、われわれが