の生活が始まるのではありませんか? それが愛と美の人生であります。人間なら誰でもが知っていたし、知っていることです。どんな人でも! ただ方向を見失っているのです。
カセットテープ云々について、少し加筆します。これは愛美本邸の毎日の研修の記録です。これらのテープは全国の希望者にどんどん貸出ししています。己れの人生の開拓者としてのあなたの助けに少しでもなれば、との願いから私たちの“気”を音声で伝えられるシステムをとりました。あなたから声の便りや空テープが届けば、すぐ吹きこんでお送りします。これによって、あなたの人生に苦悩がなくなり、自由奔放になってゆくことを願ってやみません。あなたが真剣であれば、どのテープも主と私たちのありのままの姿が録音されていますから、きっとあなたの問題を解く鍵となるでしょう。聞き方は、静かな場所で心を開いて、体の力を抜いて全身で聞いてください。聴き取るという頭脳作用を働かすのではなく、“眺める”のです。頭脳と観念の結合はあれこれ想いをめぐらしてきりがありません。その間、耳には何も入りません。“静かな目”を開発してください。それは、周囲のすべての音を聞きながら、深い認識の智慧を生み出すのです。
(1975.2.3)
愛美通信
睡眠制限戒
主
惰眠と飽食は人生電圧を低め、人から活気と歓喜を奪い去ってしまう。
苦行は必ずしも悟りの因とはならないが、艱難を忌み辛労を嫌う心は、人の前進力を弱める。
前進とは限りなく自分に鞭を打ち、数多(あまた)の転生を通じて垢のように自己の裸魂の周囲にまといつけて来た無数の迷妄層を破砕し、神与の麗魂を露わにすることである。
真人は僅かの睡眠と飲食によって足りるものであるが、迷人は一生の大半を睡眠と飲食に空費する。
五欲は肉体への沈湎から生じ、肉体に対する執着を強化する。
五欲とは財・色・飲食・名・睡眠の五つの欲を言うが、このうち最も制しがたいのは最後の睡眠欲である。他の四欲は自我の拡大を機縁としているのに反し、睡眠欲のみは死の願望を母胎としており、そのために過剰の睡眠は人をほとんど「生ける屍」としてしまうのである。
睡眠を欲によって行わず、これを一つの仕事あるいは聖務として為す時には、短時間にて足り、目覚めも画然として鮮やかである。
不眠・断食・祈祷の三行を経ずして人生の深奥に達した例を、私はいまだ嘗て一度も聞かない。
君たちはどうであるか?
(1975.1.18)
108日の旅の想い出ー(上)
玄元
15ヶ月余の大分定住を終え、王明母とその四人の坊やたちの見送りをあとに、1974年8月25日に主と飛鳥さん、玄元、瑠璃の四人は旅に出た。四国全県、岡山、広島、島根と数々のドラマを生みながら数千の人々の心に触れた旅。文字通りすべてを気に任せ、大きな力の導くままに、その時その時ベストを尽くして進む旅はまさに人生そのもの。
ほとんどいつもサイフは空で、心のしこりも一つ一つ空(から)になって行く。何度も何度も途方に暮れて、その度毎に開けて行く新しい世界はただ不思議で、大きな恵みの手を感じるばかり。旅の進みはこちらの内面に正確に比例して、大きな心のしこり出るたびに、旅はピンチに立たされる。一度完全に気を変えるため、9月24日に米子で、主と飛鳥産は西へ、瑠璃と玄元は東へと別れて行った。
108日の旅の想い出ー(下)
瑠璃
中途分かれ後、主人玄元が先ず鹿児島に居られたお二人と合流し、この時妊娠四ヶ月の私も間もなく後を追い、再び四人旅が始まりました。それが10月23日。それからは定住の方向へと動き出す気が強くなっていきました。大隈半島根占の美しさに惹かれて、あちこち家を探し廻ったり、桜島の噴火に驚嘆したり。こうしているうちに、鹿児島県川内で、飛鳥ちゃんが里の八戸市に行ってしまうと云う思いもよらぬショックな事件が起こりました 。三人になってからは、天草、島原、長崎、五島と旅が続き、定住が五島に落着くかに見えたのも流れて、12月の11日、王明母とその第六子天子ちゃんの居られる新潟県新井市の産院で感激の全員合流(このとき妊娠四カ月の飛鳥ちゃんも勿論)となって、人の煩悩の数と同じ、108日の旅に終止符を打ちました。
(1975.2.3.)
恥を知れ
不異仙人
前後撞着−−つまり前と後のツジツマが合わぬことに余り神経を使わぬほうがよい。
機械じゃあるまいに、あるボタンを押せば常に一定のメカニズムが発動するという人間は、「信頼」できるとしても「趣き」がない。
信頼できる人だと言われると、たいていの人は賞められたと思って喜ぶが、阿呆なことである。人々の思惑どおりに軌道をはずさぬ模範社員・モハン信者・モハン夫・モハン妻・モハン妾・モハン首相、その他かず知れぬモハン族は世人の心を安からしめるが、社会の進歩にはいっさい貢献しない。
ローマ法王にブッ飛ばされても「それでも地球は動く」とつぶやいたあの人はいい。火あぶりの刑に処せられても節を曲げなかったあの人もすばらしい。その時代の異端者であったけれども。
日に日に新たなる創造的人間は、昨日の自分をすでに「死体」のごとく見なしている。
「ヘエ、そんなこと俺言ったっけ!」と本気で自分にびっくりできる人間はホンモノである。
辻褄が合おうと合うまいと、今の真実をはっきり言いうる人には生命が躍動している。周囲の生ける屍どもは結局そういう人物の言いなりになる。
カトリック信者だから当然これを信じているべきだという「押し付け」を有難がっている