私が国内を旅しているときに、よく見かける光景だが、自分の子は猫可愛がりにしているのに、他人の子供を見るときには冷たく、敵でも見るような目付きをしている多数の母親の姿がある。神の愛には遠い。そして、そういう子供から家庭暴力を受けたり、家出されたりするのだ。
 シルディ・ババは音楽と踊りを愛した。そこには神の恍惚があった。
 ババは癩病者の傷口を洗って、丁寧に看護をした。
 シャ−ストラ(ヒンドゥ−教の聖典)、ギ−タ、コ−ランなどに関するサイババの知識は完璧だった。書物を読んだり研究したりしないのに、彼はあらゆる聖典に通暁し、どの章句も引用することができたので、学者たちは舌を巻いた。
 シルディ・ババはあらゆる苦悩を癒す万能薬であるウディ(聖なる灰)を帰依者に与えた。ウディはババが燃やす神聖な火から落ちる灰であった。現在でも、病人や不幸な人々は信仰心を持ってウディを服用するとき、全てを癒されている。サッチャ・サイ・ババもこの聖灰を与えるが、彼はこれをヴィブティ(ビブチ)と呼んでいる。

 シルディ大聖は「緑の指」を持つと言われた。彼が種子を撒き、植えたものは、すべて花を開き、実を結んだ。

 1918年10月15日の正午ごろ、シルディ・サイ・ババはこの世を去った。静かに息を引き取ったババは、傍らの弟子の一人の肩にそっと頭をもたせかけた。ババの葬儀をどういう形式でやるかについて、イスラム教徒とヒンドゥ−教徒のあいだに意見の不一致があったと伝えられている。
 彼は8年後の生まれ変わりを予言したが、ムスリムの帰依者側の文献にも、その記録は残っているのかもしれない。コ−ランの教義にも彼らは囚われなくなっていただろうから?


4.著者の心の散策

 歴史の記述そのものは、著者にそれほどの悦びを与えない。
 私はサッチャ・サイ・ババの周辺に暮らしていたあの日々の、紛れもない法悦を懐かしく思っている。ある日、昔からの癖である鬱の気分に捉えられそうになったとき、私は黙々とダルシャンに出かけて行った。鬱はまたたくまに消えてしまった。それは実体がなく、真理の太陽を一時覆い隠す雲のようなものだった。あの毎日晴れ渡っていたインドの空のように、本来は雲など存在しなかった。2月24日に大阪空港に帰り着いた私は、急に粉雪がちらつく日本の寒さに曝されて、風邪を引いて九州の自宅に帰ったが、しばらく咳や鼻水に悩まされながらも、私の魂の奥の悦びは消えなかった。時々は気分の陰りがあったが、オ−ム、サイラムを唱え、ビブチを頂き、夜にグッスリと眠ると、翌朝はいつも晴れやかな気分で目を覚ましているのだった。
日本にいたころ長く続いていた不眠症も、印度から帰ったら消えていた。
サイババは生きている神であり、私の過去・現在・未来を見通し、今の私の生活のすみずみにまでも、細かく気をお配りになっていることを痛感する。
 この小伝の著述を始めてから、疲労のためか、それとも私には意識できない原因からか、悦びの電圧が少し下がっているように感じ始めている。シルディ・ババの生涯のもっと詳しい紹介に取りかかる前に、充電の必要を感じているので、先に進むのを控えて、少しくサイババにこの心と体を預けて、自由に(神の自由に任せて)書いてみようと思う。
 2月10日に、私がホワイトフィ−ルドのアシュラム内で、ダルシャンの席に坐っていたとき、フッと風のように私の右側に寄り添った一人の印度の若者がいた。18歳のスリニヴァス君である。彼はサイババを愛し、サイババも彼を愛していた。青年は何度もサイババからお言葉を頂いており、彼がババに宛てて書く手紙は、彼の家の祭壇のババのお写真の前に置いておくと、それは時々「消えて」行くということだった。群衆のなかで手ずから渡せないときは、ババがその手紙を非物質化して「引き寄せる」のである。
 この現象は欧米の帰依者にもよく起こるということを、私は前から聞いてはいた。ババから頂いた指輪やネックレ−スなど、何かのことで紛失してしまって、次の機会にそのことをババに話して許しを乞うと、その品物はすでにババに引き寄せられていて、「チャンとこの通り戻っているよ」と言われ、もう一度サイババから渡されたという実話である。 私は青年スリニヴァスの言葉を信じた。
 彼は学問が好きで、立派な英語を書いていた。バンガロ−ルの学校に通っていたが、学費が足りず、上の学年に進めないと悩んでいた。両親を亡くした孤児であって、叔父夫婦の家に養われていたが、叔母は学校など早くやめて金を稼げと責め立て、毎日折檻されるので、身体の生傷が絶えないと、私に手足の化膿を見せた。私は日本から彼に学資を送金できるような資力を持ちたいと決心して、ホワイトフィ−ルドを去ったのである。
 帰国してから、彼に励ましの手紙を書いた。切手代もままにならぬような彼の貧しさであったが、いつかは彼から返事が来るだろうと待っているところである。
 しかし、今の私は翻訳による収入の道も大幅に縮減されたような状態である。この家にも養育し学校に通わせねばならない子供が6人いる。うちの子とよその子とどちらが先かというような悩みではない。インドの何億という貧しい子供たちの面倒をみな見るということは不可能であろうが、スリニヴァス君だけでも、インドの健気な子供たちの代表として助けてやりたいと、誓願を立てている。私はサイババの無限力を信じている。
 この著述の第一日も、今は夜の11時21分になっている。すべてにおいて焦らず、夜はすべてをサイババに委ねて、眠りのなかに入って行こう。熟睡は神の無限の海のなかでの憩いである。ババは一睡も必要としないお方であるが、私は眠りのなかで神と合体し、新しい霊感と活力を注いでもらうしかない。

    サイババ神よ
    今夜も私をあなたの御腕に
    抱き取りたまえ
    小さい願いをも叶えてください
    そして 大きい願いを与えてください
大聖シルディ・サイババ小伝