5.シルディ・サイの両親
                                       於天神930313/1237
 学生のころ、桜沢如一の「シュリ−マンの伝記」を読んだことがある。トロヤの遺跡を発掘したドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリ−マン(1822〜90)は、前世因縁と思われるが、若いときからトロヤ(トロイともいう)の遺跡を発見するという夢に取りつかれた。そのための資金が必要と考え、40代まで金を稼ぎに稼いだ。インド藍の輸入などもやった。「古代への情熱」という著書もあるから、興味のある人は読んだらどうだろう。
 ヘレネというギリシア世界第一の美女がいた。ゼウスとレダの娘であった。トロヤ王子パリスに誘拐され、その奪還のために、ヘレネの夫であったスパルタ王がトロヤ戦争を起こした。シュリ−マンが準備を整えてギリシアに渡ったとき、不思議なことに同じ名前のヘレネという女と愛し合い、二人は結婚する。この宿命の邂逅によって、シュリ−マンの発掘はトントン拍子に運び、ミケ−ネ・ティリンスなどの古代文明も陽の目をみた。
 ジョルジュ・オ−サワ(桜沢のフランス名)は、青年時代の私の尊敬の対象であった。無双原理(PU)を学び、戦争中に厳格な玄米菜食をやった。家族がたまに砂糖を手に入れてお汁粉を作っても、私は無視した。若い私は充分に苦行的だった。ジョルジュは後年USAで薬剤や医事に関する法律に引っかかって投獄され、日本に帰ってから死んだ。その夫人はまだ存命と聞いている。
 砒素で人体実験をやって死んだと伝えられる西勝造も、東大に通っていたころの私を強く引き付けた。お茶の水駅前の或るビルで、彼の連続講義を聴いたことがある。熱弁であり、東大の教授たちのように生温くなかったので、私も燃えた。金魚運動なども実行した。ところが、のちに結婚した第3の正妻・愉美子は、その父を西医学のために殺されたと信じていた。さまざまの因縁がある。
 しかし、私が二人のサイババを知るようになったのは、ずっと後年のことである。前に書いたとおり、シルディ・サイを知ったのはメ−ヘル・ババを通じてであった。そのサイは、会いに来る信者から有り金を巻き上げたため、文無しになった哀れな信者は歩いて夜道をトボトボ帰ったというような話を知って、世の中には飛んでもない聖者がいるものだなと、舌を巻いた。そのサイの死後に、ある実業家が「サイ石鹸」というのを売り出したら、億万長者になったという話もあった。それが昭和30年代に私に入った情報である。 ずっと下って1987年、私が61歳の年に、私は16年間全国托鉢に連れ歩いた牧野元三君(1949年生まれ)とともに、大分市を行乞(ギョウコツ)していた。ふと見ると、電柱に貼り紙があり、アグニ・ヨガの集まりがあると書いてあった。「火のヨガ」である。私は元三を誘って、その会場に行った。伝導瞑想(transmission meditation)を広めていた高橋直継君の邸宅だった。そこにサッチャ・サイ・ババの写真があった。それが機縁で、元三(敬称略)はNYCでサイババ組織に入り、印度にも何回か行き、私にサイババの情報を伝えたのであるから、人の縁はまことに不思議なものだ。
 私がサッチャ・サイ・ババの写真をニュ−ヨ−クから送ってもらったのは、日田市のアルコ−ル病院だった。3ヵ月入っていたが、入院中に、昭和天皇が崩御された。1988年の3月に退院した私は『天神だより』を発刊し、ビエルナッキ予言を紹介したりした。1991年に、愉美子が単身プッタパルティに行ったことは、既に書いた。
 サッチャ・サイ・ババがシルディ・サイ・ババの生まれ変わりであることは、元三すらも最初疑っていたようである。しかし、サッチャの帰依者でそれを疑う人は世界中にほとんどいないだろう。しかし、私はメ−ヘル・ババの指導を受けた縁もあって、シルディ・ババのことを深く知りたくて仕方がなかった。そして、印度に行って、回教徒と印度教徒との根深い確執をまのあたりに見た。
 けさ(930313)の新聞に、またボンベイの暴動のことが載っていた。爆弾テロで、私が利用した国営インド航空のビルや国鉄駅を含め、計13ヵ所で爆発が起こったという。185人死亡、580人の負傷である。ヒンドゥ−教徒とイスラム教徒との衝突は全国に波及するかもしれないというので、治安部隊が警戒態勢に入ったということだ。12日、私がこの原稿を書き出した昨日のことである。
 また、本題に入るのに、だいぶ手間どった。先に進もう。

 H.S.Gangulyの「SAIBABA OF SHIRDI」を火燵机の上に置いてある。5ルピ−の定価。英文は間違いだらけだが、著者ガングリ−のひたむきな気持ちは惻々と伝わってくる。平易な文章なので、英語の読める人は次の出版社からどうぞ。
    DIAMOND POCKET BOOKS PVT. LTD.
    2715, Darya Ganj, New Delhi-110002
    INDIA
 厳密に言えば、充分消化した上での、このような紹介も著作権に触れるのかもしれないが、私がチャンとした日本の出版社を見つける橋渡しになれば、ニュ−デリ−のこの出版社も著者も潤うと思うので、まあPR係として大目に見てもらおう。
 序文のなかで、ガングリ−氏は印度の「神の化身」(AVATAR)を列記している。ラ−マ、クリシュナ、ブダデヴ(釈迦)と並んでいる。そして、著者はサイババのことを語り出す。「誰も彼の本当の名前を知らなかった。どこで生まれたかも知らなかった。両親が誰かもわからなかった。」
 シルディ村は、ボンベイと同じくマハラシュトラ州にある。サッチャ・サイの帰依者はあまりシルディを訪れることがないような印象を、私は受けている。いつ行けるか分からないが、遅くとも1994年9月までに、私はシルディを訪れるつもりである。貧乏人の私も、シルディ大聖にお願いすれば資金が回ってくることは信じている。サッチャ・サイに会うことができたのも、100%サイのお手回しであった。名前は違っても、二人は同じ魂。私を再度渡印させてくれることを信じている。

 シルディ大聖は16歳のときに、シルディ村に現れ、途中数年間行方不明になったことがあったが、それ以外は死去の年(1918年、日本ではシベリア出兵があった年)までこの村に暮らした。約65年間、大聖は何万という人々の不幸を救い、正しい信仰の道を示した。ヒンドゥ−教徒とイスラム教徒だけではなく、英国人も彼の帰依者になった。
 サイババの教えは超宗教だったので、彼の信者たちは確かに宗教の障壁を越えることができた。ヒンドゥ−教のラムナバミやデワリのお祭りにはイスラム教徒も参加し、イスラム教のイドやチャンドロツァヴのお祭りにはヒンドゥ−教徒も参加した。その和やかな光景は、今の荒廃したボンベイにはもう見られない。
 シルディ・サイの誕生と子供時代のことは不明確だと、ガングリ−は述べている。そのなかから、彼が拾った言い伝えを私もここに紹介する。
 16歳でサイがシルディ村に来たのは1858年だった。日本では安政の大獄が起こった年だ。若いファキ−ルの超自然力が知れ渡って、村人は彼をサイババと呼ぶようになった。ガングリ−は、サイババの意味は「全能の神」だと言っている。
 サイババの目覚ましい奇跡と素晴らしい教えは他の地方にひろがって、何万という信者がめいめいの日記に、サイババのことを書き記したそうだが、英語でないかぎり私には読めない。今度インドに行ったら、ガングリ−と連絡を取って、そういう資料も発掘しようと思う。当時の新聞雑誌にもサイババのことは出たというから、ニュ−デリ−の図書館で調べることができるかもしれない。

 サッチャ・サイ・ババが自分の前身を明らかにしたのは、1940年(昭和15年)5月23日で、サッチャが13歳の時だった。その時のサッチャの回顧談で、シルディ・サイ
大聖シルディ・サイババ小伝