うのをためらっていました。まだ、それが錯覚ではないかと疑っていたからです。
「ハンピから、私はベラリ−に連れて行かれました。そこで、ラマラジュはスワミを市役所の全部の職員に紹介しました。(そのころの私はただのラジュで、スワミとは呼ばれておりませんでした。)この小さい男の子を大人たちが敬愛するさまを見て、おおっぴらに嘲笑する人たちもいました。私をハンピに連れて行く前に、ラマラジュは私に半ズボンとシャツを着せてくれました。そのころ、私はまだ12歳でチビでした。今でも、私は背が低いほうです。当時はもっと低かったわけです。当時、今から大体50年前に、シャツの襟にカラ−ピンをつけるのが子供たちのあいだに流行していました。今では、そんな流行はすっかりなくなっています。
「そのカラ−ピンは当時のステ−タス・シンボルだったのです。ラマラジュは私への贈り物として、そのピン以外のものは思いつきませんでした。そこで、彼は金細工師のところに走って行き、1時間もたたないうちに、私に相応しい黄金のカラ−ピンを作ってきました。彼は自分の手でそのピンを私の襟に付けて、こう言いました。"ラジュ、あなたがこのカラ−ピンを見るときはいつも、私のことを思い出してくださいよ。"
「少ししてから、私たちはみなバスでウラヴァコンダに戻りました。次の日、私が学校に行こうとしたところ、そのカラ−ピンは取れてなくなっていました。そこで、私は次の歌をうたったのです。

10月20日の月曜日
ハンピから戻って 学校に行ったら
ババは自分のカラ−ピンをなくしていた
するとその日 私に変化がやってきた
カラ−ピンがなくなったのは その変化のためだった
あのカラ−ピンと同じように
世間の絆は私から離れ ハンピのダルシャンも消えた
マヤ(幻妄)は私から去り
出家の時が来た
(ダルシャンとは聖者を直接見て、その恩寵を頂くこと−−訳注。)

「世間の物事への執着はマヤです。私たちがこの執着から解放される日に、私たちはマヤから自由になるのです。
「同じ日に、私は家を出て、アンジャナイアの家の敷地内にあった大きな丸石の上に坐りました。アンジャナイアは消費税の査定官でした。彼はスワミに対して、説明のつかない霊的な感覚を体験していました。彼の家は、私が学校に通う道筋にありました。彼とその妻は何か食べるものかコ−ヒ−を持って、自分の家の戸口で私を待っていたものです。その家の子供たちが邪魔になると思って、夫妻は子供たちに家のなかにいるように言いつけてありました。私がゆっくりとそのドアに近づくと、夫妻は私の前にひれ伏しました。私は彼らをとどめて、"先生、あなたは私よりも年上なのですよ。そんなことをするべきではありません"と言いました。
「すると、彼らの答えはこうでした。"ラジュ、私たちは身体において齢が上です。でも、知恵では私たちは子供のようなものです。あなたは主クリシュナの化身です。"しかし、同時に彼らは人から馬鹿にされるのを恐れていました。そのため、彼らは私をそばに呼び寄せて、だれにも見られない所でこういうことを話したのでした。
「その日、1940年10月20日は月曜日でした。私はその日どこにも行きませんでした。学校も休みました。当時、学校で朝のお祈りをするのが私の務めでした。踏み段のついた壇がありました。
「その頃でも、さまざまの宗教は一つであるという考えは大切なものとされていました。時々は、教師でさえも、こんな小さい男の子がおこがましくも宗教の統一を教えるということで、少し腹を立てるときもありました。その日は、私が欠席したというので、学校中に大変な失望と混乱が起こりました。皆がラジュのことを知りたがり、なぜ欠席したのかと聞き回っていました。皆が走ってアンジャナイアの家に集まって来ました。私は岩の上に坐ったまま、誰にも語りかけることをしませんでした。皆がこの奇妙な出来事の原因について憶測をしていました。何かこの少年に変化が起こったに違いないとか、ハンピから帰ってから精神に変調を来たしたとか、家庭で何かが起こったのだろうとか、いろいろに推測していました。
「私は提案しました。もし、私が何者であるかを知りたいならば、私の写真を撮るべきだ、と言ったのです。誰かが写真を撮りました。その写真を見ると、私の真ん前にシルディ・サイの絵が写っていました。そのとき集まっていた人々のなかに、現在スリ・サッチャ・サイ・オ−ガニゼ−ションの地域議長をしているウラヴァコンダ・アンジャナイアがいました。彼もその写真を貰いました。私は子供たち全部に、いつものお祈りが終わったら、学校の勉強を始めるように言いました。」


3.サッチャ・サイを愛した二人の少年

サイババの回顧談は続く。これはN.B.S.RAMARAO著の「ババに関する夢とビジョンと聖なる体験」からの抜粋である。サイババに関する書物の入手先は後述する。 「そうこうするうちに、兄のセシャマラジュは何か大変なことが私の身に起こったと信じて、プッタパルティに電報を打ちました。みんなが大急ぎで、プッタからウラヴァコンダに駆けつけました。家の者たちは、私がもう一日でもウラヴァコンダに留まることを承知しないという風でした。そのころは、プッタパルティまでも、ブッカパトナムまでもバスの便がありませんでした。バスの運行はペヌコンダまででした。ペヌコンダからは、去勢牛の車に乗って旅をしなければならなかったのです。少年たちはみな、私についてプッタパルティに行きたがりました。このことに関係して、私は非常に悲劇的な事件を語らなければなりません。
「学校では、一つのデスクに3人の少年が坐るようになっていました。ですから、二人の少年がいつも私と一緒に坐っていたわけです。一人はsheristadar(不明−−訳注)の息子でした。もう一人は税務署査定官の息子でした。二人ともかなり裕福な家庭の出でした。私はこの二人の真ん中に坐っていたのです。毎日のダルシャン、スパルサン、サンバシャン(見ること、触れること、話すこと)のために、この少年たちには大きな変化がありました。ラジュとその少年たちとの結びつきは、日増しに強いものになってゆきました。私が学校を去った日から、彼らは狂ったかのように“ラジュ、ラジュ、ラジュ”と
神人サッチャ・サイ・ババの横顔