神人サッチャ・サイ・ババの横顔
私の名前をくり返して止まらなくなりました。私がバスに乗りこむ姿を見たとき、二人の苦悩は極まり、第一の少年は井戸に身を投げて溺死しました。もう一人の少年は完全に飲食を絶って、私の名前を"ラジュ、ラジュ、ラジュ"と繰り返すばかりでした。食物と水を絶ったので、彼の身体は大層衰弱し、麻痺したように横たわっているだけでした。このような状態は最高の霊的状態でした。しかし、人々はこれは一種の発狂であって、幻妄の外部世界の完全な無視にほかならないと信じました。その二人の少年の悲劇的な事件のあとで、その教室は閉鎖され、あとになって、そのデスクは"スリ・サッチャ・サイ・デスク"と名づけられました。
「当時の校長先生はラクシュミパティでした。私が学校に着くといつも、この先生は私を校長室に連れて行き、ドアを閉め、私を彼の椅子に坐らせ、あらゆる尊敬と献身の念をこめて私の足を押すのでした。このような帰依は、数々の前世の良い行いと思いの結実にほかなりません。私は無邪気にその先生に、どうかそんなことをしないようにと頼んだものです。彼の答えはただ一つでした。"あなたにはまだこういったことが分かっていないのです。あなたのなかには或る偉大な力があるのです。"このようにして、その当時、ウラヴァコンダではこのようなことが沢山起こりました。その10月20日は完全な変貌が起こった日でした。」


4.その後50年経って

このサイババの話は、その1940年10月20日から50年経過した記念祭の時の講演である。この五十年祝典は「アヴァタル宣言」を記念するもので、プラシャンティ・ニラヤム("平安の家"という意味で、プッタパルティのアシュラムを指すが、プッタパイそのものを指すこともある)で、1990年10月20日に挙行された。サイババの話はまだ続くが、サイババ関係の図書を種々購入したい人のために、申し込み先のアドレスを下に記しておく。図書目録も入手できるであろう。

サティア・サイ・オーガニゼーション・ジャパン
〒153−0043 東京都目黒区東山1−30−8 пF03−5721−0468

今年はさらに3年たった1993年であるが、私が二月にプッタパルティを訪れたときは、タクシ−運転手のアショカンさん(サイババの帰依者)は、車中から広大な無料病院(世界中からの名医が奉仕している)と、まもなくオ−プンされるプッタパルティ空港について説明してくれた。あの病院の敷地の広大さは、日本には例を見ないものなので、言葉では説明できない。出産も胆石の手術も何でもしてくれるとのことだった。また、インドの重要な都市から乗り入れのできる空港が開業されれば、今までデリ−やマドラスやボンベイの国際空港から、国営インド航空(国内線)でバンガロ−ル空港まで飛び、そこからさらにバスやタクシ−で何時間もかかっていたものが、外国からの来訪者.修行者にとって非常に便利になる。
アシュラムの門の外には、門前町が広がっているが、そこはインドの普通の町のようであって、乞食も物売りもいる。サイババの慮りで、インドそのままの情景がアシュラムの外に展開していて、初めのころは、「外は地獄、中は天国」と私たちは呟いていたものだが、サイラムを連呼して右手を差し出してくる無数の乞食さんを「人間」として、さらに「神性の宿るやしろ」として見ることができるようになるまで、われわれ日本人のそれぞれ内心の葛藤は大変なものだった。サイババの力を以てすれば、プッタパルティやホワイトフィ−ルドの村全体に警備員か警官を常駐させ、乞食さん(呼び捨てがだんだん出来なくなった)を追い払って、われわれガイジンが安楽に過ごせるようにすることができるかもしれないが、村全体が修行の場であって、決して観光地ではなかったのである。
もちろん、病院や学校ばかりでなく、村人が働けるような工場その他の授産場もあったが、遠方の地からも、外国人来訪客を目当てに入りこんで来る乞食さんの大群を押し留めることはできないであろう。教育がなく、英語の読み書きもできない彼らには就職は無理なのである。乞食が職業化しているのがインドの実態である。
バンガロ−ルのような300万都市でも、警官の数は異常に少なかった。パトカ−などは見たこともなかった。ボンベイ(600万)、カルカッタ(1000万)のような少数の大都会を除いては、ほとんど犯罪が起こらないのもインドの特徴であろう。やはり、数千年の長い宗教伝統によって、道徳レベルは高いのである。
麻薬マフィアが、ヒンドゥ−教とイスラム教の対立を利用して、ボンベイやカルカッタに騒乱を引き起こしているのは事実である。悪の力は執拗に、インドの精神遺産を破壊しようとかかっている。カルカッタのような所での都会悪は、ニュ−ヨ−クなどに匹敵するかもしれない。しかし、サイババ半世紀の努力は着実に悪の勢力を消しつつある。
サイババの講話に戻ろう。

「学校の生徒の心にも変化がありました。私に対する彼らの愛情は時とともに増してきていました。その例として、一つの出来事を話しましょう。10月20日の次の日に、新しい少年が祈りのために壇の所に来ました。祈りを捧げるかわりに、その子は急にワッと泣き出しました。その子が泣いているのを見て、ほかの子も一斉に泣き出しました。こうして、祈りは泣き声に変わったのでした。ラクシュミパティ校長は生徒一同に言いました。"今日は祈りを行ないません。学校に来なくなった彼のために泣くことは、それ自体が祈りです。それぞれの教室に入ってください。"私が学んでいた教室には錠前が下ろされ、生徒にも教師にもそれ以上の悲嘆が生じないようにされました。そこは今では、沢山の人々が訪れる記念の場所になっています。
「このように、当時は男も女も現在より遥かに純真でした。生徒たちも清らかな心を持ておりました。彼らは決して、適切でない意見を述べたり、無意味か無礼な質問をすることはありませんでした。
「また、観察や実験をやろうと言い出すこともありませんでした。今日の学生・生徒は昔よりは知能が進んでいるかもしれませんが、良い性質は少なくなっています。今日、アンドラ・プラデッシュ州はあの1940年10月20日のために"黄金の五十年記念祝典"を挙行しています。この祝典は、あの日の記憶を心のなかで新たにするためのものです。 「神の偉大な愛がこうして形を取ったのです! あなたがたはこういった全てのことを、誇らしい目で眺めてはいけません。むしろ、これは"真理の力"が顕現したと信じるべきです。この50年間に、プラシャンティ・ニラヤムには多くの変化が起こり、多くのことが達成されました。こういったことは全て、たとえ500年かけても出来ることではありません。過去に何人かの偉大なアヴァタルがこの国土に生まれました。しかし、50年という短期間にこれだけの達成を見たということは、過去に一度もありません。すべてのことが一つの手で為されました。大きな大学が設立されました。プラネタリウムもあります。この小さい辺鄙な村に飛行場も出来ました。こんにち、プラシャンティ・ニラヤムは世界のすみずみにまで広がり、世界中の人々がここを訪れるようになり、プラシャンティ・ニラヤムは一つの"ミニ世界"になっています。
「このことは11月23日(サッチャ・サイの誕生日−−訳注)に、もっとはっきり分かってきます。しかし、どうか、たとえ招待されたとしても、あまり多数でここに押しかけないようにしてもらいたいと思っています。実は、招待はこちらから全く出していないのであります。それどころか、私は人々に来るなと言っています。しかし、ご存じのとおり、蜜蜂は花園に