集まってくるものです。このような誘引は"神性"が存在するときにのみ可能です。"神性"の芳香は世界中に広がっています。
「アルゼンチンは遠い国です。こんにち、バジャンはアルゼンチンのすべての家庭で歌われています。アメリカのマイアミでは、陸軍の士官たちがバジャンに参加しています。あなたがたは新聞で読んだかもしれませんが、6ヵ月前に、この士官たちが現在の政府のかわりに、サッチャ・サイ政府を樹立するという誓いを立てました。当局は、この士官たちが発狂したのだと思って、彼らを精神病院に収容しました。ところが、その士官たちは医者たちや看護婦たち、さらには患者たちまでも回心させ、皆をサイババの帰依者にしました。このような変化は言葉だけでは起こりえないものです。心の変化だけがそれを可能にします。」


5.私は通訳

サイババの50年祭記念講演は終わりに近づいているが、日本の読者はこの「熱気」に当てられて、サイババとその帰依者たちは狂信団体かと思うかもしれない。私も去る2月にバジャンの集会のなかに自分の身を置き、サンスクリット語やテルグ語(プッタパルティ近辺の地方語)は分からないながら、似たような発声をし、メロディ−に乗っているうちに、涙が出て仕方がなかった。2年前(1991年)、愉美子が6人の子供を私に預けてプッタパルティに単身出かけたとき、彼女もやはり涙が止まらなかったということだった。私はその話を聞いても解らず、愉美子が持ち帰ったバジャンのオ−ディオ・テ−プを聞いても、大した感興も湧かなかった。
私は40代にモ−ツァルトに耳が開き、ずっと彼のファンだった。世界にこんな美しい音楽はないと思っていた。そのため、サイババも印度の民衆に働きかけて、モ−ツァルトが分かるようにしてくれないかなと思ったくらいだった。
しかし、バジャンは神の名を唱える賛歌・頌歌だった。それは人々を神に溶かし込む音の儀式・歌の祈りであった。次元が違う。天才モ−ツァルトは、貧困も嫉妬も飲酒も賭博もやった「普通の人間」だった。当時流行していた放血療法の犠牲となって、失意のうちに病死したとき、彼の死体は共同墓地に埋葬され、葬式といえるほどのものもなかった。彼の妻コンスタンツェは、夫によって「天使」と讃えられた女であったが、我儘で金ばかり要求する悪妻だったと男たちに考えられている。しかし、愉美子は或るとき言った。「みんな普通の女の人なのよ。クサンティッペもそう。ソクラテスの奥さんになったから、悪妻にされてしまっただけなの。ソクラテスと来たら、家にお金を入れるでもなく、毎日アテネの町をうろつき、上流家庭の坊やたちと問答したり、宴会などに招待されたら家にも帰って来なかったわ。奥さんが苛々するのは当たり前。」なるほどと納得した。
コンスタンツェは、夫が35歳で夭折したあと、モ−ツァルトの賛美者だった或る弟子と再婚し、その新しい夫の尻を叩いて、モ−ツァルトの楽譜を出版させ大儲けをしたということである。まあ、それはいい。天才には付き物の話である。
私は脱線している。この本は、サイババ一辺倒の純粋な帰依者だけを対象にしたものではない。私はサイババ(彼が神人だということさえ、頭から疑ってかかる人は多いだろう)と、一般社会の人々との中間に立って「通訳」している。むしろ、私は「疑い深い人たち」にこの本を読んでもらいたい。ダウティング・トマスと仇名を付けられたイエスの弟子がいた。十字架の復活を疑い、弟子たちの前に現れた幽霊のごとき師を見て、「あなたの傷痕に手を入れさせてください。そうしたら信じるから」と言った男である。しかし、イエスはこの実証主義の弟子を大切にして、ユダヤその他、地中海世界への伝道は、ヨハネとペテロに任せて、彼は十代の修行地であったインドにトマス一人を伴って帰って行った。このことはホルガ−・カ−ステンの「イエスはインドで生きた」に詳しい。この本はまもなく東京で邦訳書が出版されるということを、カ−ステンからの手紙で私は知った。興味のある人は読んでみるとよかろう。いい本である。科学的で実証的な研究書だ。その原著名その他を記す。






カ−ステンはドイツの神学者である。彼は5年間の研究調査のあいだ、イスラエル、中東、アフガニスタン、インドの、イエスが生きていたと思われるあらゆる史跡を訪れ、多くの驚くべき証拠を入手し、次の結論に到った。
1.「3人の賢者」はインドから2歳のイエスに会いにゆき、彼の幼少期の知的・霊的 養育に尽力した。
2.13歳のころ、イエスは「シルク・ロ−ド」を旅してインドに入り、当時盛んであった仏教を学んだ。彼は仏教を吸収し、みずから霊的大師となった。
3.パレスティナに戻って、十字架処刑により、メシアとしての彼の使命は終わったが、 「トリノの屍衣」の精密な科学分析が立証したとおり、彼は復活した。
4.復活後、イエスはまず近東に住み、その後インドに戻って80代の高齢で死去した。 彼の墓はカシミ−ルのスリナガルに現存する。
イエスはインドでの帰り旅の途中、しばしば癩病人を癒した。十字架受難からカシミ−ル到着まで16年以上かかったと、カ−ステンは考証している。当時、イエスはイサ(ISA)と呼ばれ、その名はコ−ランにも出てくる。サイババが以前に、「イサの名を続けて唱えてごらん。イサイサイサイサイサイ...そのうち、サイになりますね」と言ったのは有名な話である。
「死海文書」は第二次世界大戦後の1947年以来、相次いで発見されたが、そのなかに重要な「トマス伝」があった。もちろん、保守的なロ−マカトリック教会は、これを「教外別伝」としている。そのなかの話で、イサ(以下この名を用いる)は使徒トマスにインド伝道を命じたが、トマスはそれを固辞した。しかし、イサは独特の策略を用いて、トマスをインドに送り出した。この話は興味ぶかいので、次の章にそれを述べる。私の脱線はいつか止まって、またサイババに戻ることはたしかであるが、トマスの話もその後の伏線になるかもしれない。


6.使徒トマスは奴隷に売られた

以下はトマスのACTS(行伝、または言行録)によるものである。
“Jeasus Lived in India” 不明ですが、[リンク集]記載のサイ・センターにお問い合わせになるとわかると思います。(事務局)
神人サッチャ・サイ・ババの横顔