イサは受難後16年以上を費やして、エルサレムからカシミ−ル、さらにガンジス河のほとりのベナレスを経て、インド東海岸のベンガル湾に面したジャガナトまで達している読者はどうか手元の世界地図を広げて、彼の足跡を辿ってもらいたい。
「神の一人子」(キリスト教)または「預言者の一人」(イスラム教)であったイサは、エルサレムから北上し、地中海を西に見ながら、ダマスカスを経て、黒海のほとりのアンドラパに着き、そこから西にすこし行ってから、また取って返し、チグリス河に沿ってメソポタミアに入り、バビロンからペルシアへ、さらにインダス河の上流を横切って、カシミ−ルに入った。
イサがダマスカスに住んでいたころ、ニシビスの王からの手紙を受けた。王は病気を治してもらいたいということだったので、とりあえずイサはトマスを先に王のもとに送った。イサはあとから行ったが、着いてみたら王の病いはすでにトマスによって癒されていた。イサは母のマリアとともにニシビスに行ったという記録がペルシアに残っている。
クルド族の伝承のなかにも、イサが復活後トルコの東部に住んでいたという記録があると言われる。イサはニシビスから東北に向かったが、トマス伝によれば、イサは突然、アンドラパ王の宮廷で催された王女の婚礼に現れたという。この師弟は別々にその地についていたのだが、ゆくりなくもその婚礼の席で再会をしたわけだった。
この使徒トマスは以前にイサからインドに行くように命じられていた。ところが、彼は行くのがいやで、身体が弱いので行けないと言い訳をし、そればかりか、「私はヘブライ人なので、どうしてインドに行って、そこの人々に真理を説くなどという大それたことができましょうや?」と言った。ところが、或る晩のこと、メシアが彼のところに来てこう言った。「トマスよ、恐れることはない。インドに出かけて真理の言葉を説きなさい。私の恩寵はお前の行くところ全てにあるのだ。」しかし、トマスはどうしても承知しないで、「ほかの場所ならどこへ行けと仰っても、私は喜んで参ります。インドだけはどうしても駄目でございます」と言った。

「トマス言行録」によれば、イサはそれから、インドの商人アバンに、渋るトマスを奴隷として売り渡した。(情け深いイエスさまが弟子をそんな目に合わすはずはないと、クリスチャンは怒るかもしれない。また、クリスチャンたらずとも、前述の少年サイババの級友二人が相次いで死んだという事件も、神さまなら救えたはずだと、文句を言い立てるかもしれないが、そういう問題はまたあとで論ずることもあろう。)このアバンという商人は、彼が仕えていたグンダフォル王の命令で、大工を捜しにその地に来ていたのである。 グンダフォル王はパルティア(カスピ海南東の古国、現在はイラン北東部、中国語名は安息)とインドを、紀元1世紀に治めていた王で、当時の貨幣がそれを証明している。イサはアバンと次の契約書を交わした。「刻印のない銀3ポンドでこの男を手放す。」こういう風変わりな手段を講じてでも、イサは使徒トマスが安全にインドに到着するよう取り計ったのである。
疑いっぽくて弱虫のトマスも、こうやって大師じきじきのお仕込み(至悟気)を受けることになる。ずっとあとになって、トマスは南インド東岸のマドラスを中心に伝道を行ない、最後はあの乱暴者ペテロと同じように十字架に果てることになるのだが、それはまた後で語ろう。
「トマス言行録」と「トマス福音書」はともにシリア起源のものであるが、その元を辿ると、トマス自身がエデッサで布教をした事実につき当たる。マドラスにおけるトマス殉教後、4世紀になって彼の遺骨はエデッサに送り返された。この使徒の本名はディディモス・ユダ・トマスという。この名は「双子のユダ」という意味である(アラム語のトマは双子の意味)。「双子」には「親しい仲間」という意味もあって、イサとの親密な関係をも示唆する。
そういう特別の間柄であったから、トマスはイサの内心の深い秘密を聞くことができた。トマスがイサの秘密の教えを聞いていた証拠として、「トマス福音書」に次の一節がある。「イエスはあるとき、使徒たちに言った。"私がどんな者に似ているか、めいめい意見を言ってみなさい。"シモン・ペテロは次のように言った。"あなたは正義の天使のようです。"次にマタイはこう言った。"あなたは賢明な哲人のようです。"最後にトマスは、"主よ、あなたが誰のようであるかは、私の口が言えることではありません"と言った。イエスはこれに対して、"私はお前の師ではない。お前は、私が底の底まで極めつくした泡立つ泉から飲んで、それに酔った人間である"と答え、主は彼を連れて引きこもり、彼に三つのことを述べた。トマスが仲間のところに戻ったとき、皆は彼に"イエスはあなたに何を言われたのですか?"と尋ねた。トマスは次のように答えた。"もし、私があなたがたにイエスから聞いたことの一つでも話したら、あなたがたは石を拾って私に投げつけることでしょう。そして、その石からは炎が上がって、あなたがたを焼きつくすことでしょう。"」
トマスもイサも白いロ−ブを着て、似たような髪かたちと髭をしていたから、二人は正に双子のように間違われたらしい。前述の王女の婚礼のとき、アンドラパ王は使徒トマスを花嫁と花婿の部屋に案内し、新婚の二人を「入信」させる儀式を行なってくれと頼んだ。トマスが祈り終えると、一同は新郎新婦の部屋から立ち去った。これからあとは、トマスの記述である。
「皆が去ってドアが閉められたあとで、花婿はカ−テンを開けて、花嫁の部屋に入って行こうとした。するとそこに見たのは、花嫁と話をしている主イエスの姿だった。その人は、今しがた二人を祝福してから立ち去ったトマスによく似ていた。それで、花婿はイエスに、"あなたはさっき出て行ったではありませんか? どのようにして、またここにお戻りになったのですか?"と尋ねた。ところが、主は次のようにお答えになった。"私はトマスと呼ばれるユダではありません。私は彼の兄です。"」
「トマス言行録」には、イサとトマスが紀元47年にタクシラ(現在はパキスタンにある)に滞在し、グンダフォル王の宮廷にいたと記されている。トマスはこの王から豪華な宮殿を建てる任命を受けたが、彼はその資金を貧しい人々に分かち与えてしまった。
トマスは終生、自分がイサの手によって奴隷に売られたことを感謝していた。イサのお陰で、インドまで来ることができ、多数の人々の魂を救うことができたということを、ありがたく思っていたのである。グンダフォル王とその弟も結局トマスの手によって洗礼を受け、イサの忠実な信者になった。
聖書には使徒ヨハネが聖母マリアの世話をしたように書かれているが、実際は、イエス(=イサ)が敵の手に生母が落ちないように、トマスとともにマリアをカシミ−ル(語源は"地上の楽園")まで連れてきたようである。マリアは70歳を越えており、旅の疲れて病没している。カシミ−ル国境のマリに聖母の墓があると、カ−ステンは記録している。 北インドは7世紀にイスラム教に改宗したが、ムスリムたちはその墓を尊んで、これを破壊しなかった。もうすこし、トマスの話を続けよう。彼は南インドのミスダイ王の宮廷に、宣教師として住むようになった。そこで沢山の人々をキリスト教に改宗させたが、あることで王の不興を買い、殉教の死を遂げた。後年、マルコ・ポ−ロが元(ゲン)の王朝に仕えて25年間極東に滞在したあと、ベネチアに帰る途中、使徒トマスの墓を拝む無数のクリスチャンに出会ったことを、1295年に発表している。
トマスの遺骨は前に述べたとおり、エデッサに4世紀の初めに送り返されたが、彼の墓は今でも、マドラスの近くのミラポ−ルにあり、人々の尊崇を集めている。
マルコ・ポ−ロによれば、南インドの西海岸(現在はケララ州のマラバル海岸)にも、昔からクリスチャンが住んでいたということである。
イサは、コ−ランではイッサ(ISSA)として記名され、キリスト教徒が復活後のイエスの昇天を「迷信」していることを、預言者ムハマッドは嘲笑し、イッサがカシミ−ルに入って長寿を全うしたことを記録しているが、私の脱線はこの辺で打ち切ろう。
神人サッチャ・サイ・ババの横顔