7.ヒスロップのことなど

話を現代に引き戻す。
ヒスロップ(J.S.Hislop)というアメリカの学者がいた。彼は1968年1月から1878年2月までのサイババとの対談を"CONVERSATIONS with Bhagavan Sri Sathya Sai Baba"という本にまとめて、いる。この原書にも著作権条項が厳しく定められている。「本書のいかなる部分も、著作権保有者の事前の許諾なしに、翻訳または複製によって伝達もしくは利用することはできない」云々である。私がこの著述の前に書いた「大聖シルディ・サイ・ババ小伝」もそうであるが、私が利用する数々の参考書について「事前の許諾」を受けていたら、私の「サイババ著作」はいつになったら読者の手に渡るか分からない。
鉄は熱いうちに打てという。法律上の事務手続きに何ヵ月も何年もかけていたら、私のインスピレ−ションは止まってしまうかもしれないし、地球情勢が緊迫を告げている現在、どんな地球規模の動乱がいつ起こるかも解らない。私の「サイババ著作」は一種の海賊版かもしれないが、遵法という世間道徳を一時無視することをサイババに許してもらいたい。私自身の著作権は放棄するし、この書物も読者において個人的にコピ−して、なるべく沢山の知友に読んでもらいたい。原稿料や印税はこの「サイババ著作」からは全く期待しない。
昔、仏教の経典が日本に渡って来たときは、印刷がままならぬ時代であったから、篤信の人々は進んで写経をして、なるべく沢山の人に読んでもらおうとした。損得が優先する現代になって、著作権問題がやかましく言われるようになった。真理の伝播は法律や商業の次元を越えているはずである。地球が一国化し、貨幣経済が消失してしまえば、著作権などの問題はこれまた消えてしまう。私の著作を大規模に印刷して営利を図りたい出版社は、一般の手順で各著作権者の許諾を受けてもらいたい。私の著述は営利目的でないし、こういう参考書がありますよ、というPR・広報である。私の「犯罪」を許してくださるのは「神」おひとかたであろう。私は20部しかコピ−を取らない。種子を撒くだけのことである。その種子が人々の心の花園でどういう花を開くかは、私には不明である。
私には確固とした生活の手立てはないが、少なくとも、サイババ関係の著作から利益を引き出したいとは思わない。私の本は「親書」なのである。個人的手紙に何を書いてもいいではないか。20人に同文の手紙を送るだけのことである。サイババ帰依者たちの「遵法派」は私を非難するかもしれない。カトリック教会におけるように、私の著作はアポクリファ(外典)として処分されるかもしれない。それでもいい。

ジョン・S・ヒスロップ博士の紹介から始めよう。
彼はカリフォルニア大学(UCLA)の教育学部で博士号を授与され、その後、諸校で教鞭を取ったが、のちにビジネス界に身を投じ、カリフォルニア都市開発会社の副社長となった。
若い時から、博士は霊的真理の探求を続けてきた。18歳のときに、彼はセオソフィ−(神智学)の研究に入った。のちに、南カリフォルニアのオジャイ谷で2年間、J・クリシュナムルティとアニ−・ベザント博士(1847〜1933)とともに過ごした。
クリシュナムルティは神智学団体によって最初「救世主」と信じられ、幼いときから大切に養育されたが、成人後、本人がそういう存在ではないと宣言して神智学派から決別した。彼の著書やビデオテ−プは日本にもだいぶ出回っているから、彼の信者は日本にも多いのかもしれない。彼は数年前に物故している。
アニ−・ベザントの「再臨のキリスト」は、私が30代に原書で読んだことがある。訳本も出ているかもしれない。ベザントの変わった主張は、再臨のキリストは必ずしもクリスチャンのなかから出ないかもしれないということだった。また、その性格や容貌は、たいていのクリスチャンのイメ−ジから程遠いものかもしれないとも書いてあった。
英国を中心とする「伝導瞑想」の一派では、マイトレ−ヤと称する実在のメシアがすでにいて、近い将来に衛星テレビなどを使って、全人類を瞬間に光明のなかに導き入れ、病気や貧困も瞬時に消えるとか説いているが、私はその伝導瞑想を暫くやってみて(1987〜1988年)、何も感じなかったのを覚えている。マイトレ−ヤの信奉者は、サイババがマイトレ−ヤと手を組むとも主張していたが、眉唾ものである。
神智学はブラヴァツキ−(1831〜91)というロシアの神秘学者が創立したものだが、彼女の超能力にもかかわらず、私は神智学を素通りした。同じロシアのウスペンスキ−や英国のJ・ベネットを通じて、その師であるグルジエフのことも知ったが、彼らの思想にも深入りをしなかった。ただ、ベネットはインドネシアのスブドを欧米に紹介した功労者であった関係で、別系統でスブドの霊的修練をやっていた私は昭和30年代にベネットの本を訳したり、文通をしたことがある。ベネットは晩年にスブドから興味を失い、メ−ヘル・ババに関心を持っていたが、まもなく死去した。

全く、私は内外のいろいろの神秘思想や宗教に若いころから関わってきた。サッチャ・サイ・ババは「あれこれのグルを求め回るのは、自分の敷地にあちこち浅い井戸を掘って水が出ないようなものだ。アヴァタルに出会い、神をグルとして、その場所を深く掘れば無限の清水が湧き出てくる」とヒスロップに語ったことがあるが、私は不幸にして、その放浪タイプの求道者であった。しかし、私の放浪(霊的にも肉体的にも)にメリットがあったとしたら、それは或る程度広い地球的展望を開いたことである。真理を求めて、誰かが或る道を歩んでいても、私はそれを見て大体の見当がつく。意見を求められれば、なにがしかのことは言える。それくらいのものである。
しかし、比較宗教学の学者にもならなかったし、あちこちの秘教や神秘修行から超能力をかき集めるということにも興味を抱かなかった。私は本当の神を知り、その神と合一したかっただけである。その正しい道を求める途中で、ウィリアム・ジェ−ムズやベルグソンのような哲学者は私のよいガイドになってくれた。作家のヘルマン・ヘッセも20代の私の大切な導師であった。齢(よわい)66歳になって世界を見渡すと、多くの昔の恩師たちはあの世に去っている。恩恵は忘れられないから、今では批判できる人々であっても、やはり敬称抜きは心苦しいが、中学から大学までの谷口雅春、「踊る宗教」の北村サヨ、催眠霊能者のエドガ−・ケイシ−、スブドのムハマッド・スブ−、シルディ・サイ・ババを知らせてくれたインドのメ−ヘル・ババ、肉身にはお目にかかれなかった天理教の中山みき、その系統の芹澤光治良、等々、みな懐かしいお名前である。

ヒスロップ博士は1958年にインドに渡って、チベット国境に近い「聖者の谷」ウッタル・カシに瞑想アカデミ−を樹てた。それは超越瞑想(TM)のマハリシ・マヘッシュ・ヨギの門下にあったときのことらしい。1958年というと昭和33年である。ちょうど私もマハリシの高弟ブラ−マチャリから、TMのイニシエ−ションを受けたころである。
神人サッチャ・サイ・ババの横顔