ブラ−マチャリ・デヴェンドラは早稲田の法学部を出ていて、日本語に堪能であり、温厚篤実なお人柄であった。私はマントラを貰ったが、スブドのラティハン(霊的修練)によって「形なき神」に直結することに慣れていたために、マントラが邪魔になって仕方がなく、すぐマントラを放り出した。ブラ−マチャリはのちにマハリシから離れて、インドで貿易業を営むようになったと聞いたが、詳しい消息は不明である。彼のイニシエ−ションを受けた人々のなかに田中恵美子さんがいた。彼女は大胆にコメントした。「私の父の三浦関造のヨガの教えにはTMのようなマントラ・ヨガも入っています。日本には目新しいものではありません。」私はブラ−マチャリから促されて、マハリシの主著を「超越瞑想入門」の邦題で、読売新聞社から翻訳出版した。10年のロング・セラ−だったが、マハリシが新版を出すというので、絶版にした。
  TMにはビ−トルズも関わったが、あの四人組は北インドの撥弦楽器シタ−ルを採用したりして、インド音楽の影響を少なからず受けたようである。グルが二流、三流、またはイカサマ師だったとしても、どんな人間、どんな団体も無駄なものはないように思える。私がTMの読売本を出さなかったら、牧野元三は私の門を叩かなかっただろうし、元三を通じて1987年にサイババを知ることもなかっただろう。

  ヒスロップに戻るが、彼は愛妻ヴィクトリアを連れて十年間ビルマに毎年通い、トレイ・シトゥ・ウ・バ・キンという私には未知の導師のもとで、ヴィパサナ瞑想というのをやった。サッチャ・サイ・ババに彼が会ったのは、1968年1月という。そしてその後、彼はアメリカにおけるサッチャ・サイ・ババ・オ−ガニゼ−ションのコ−オ−ディネ−タ−(取りまとめ役)になったということである。1968年は昭和43年。私は千葉県我孫子に住んで、新日鉄の翻訳をやり、裕福な生活をしていたが、2年後には行く手定めぬ放浪托鉢の旅(16年間)に入ったことを思い出す。
ヒスロップとサッチャ・サイとの対話集も、この先いろいろと引用するつもりである。


8.舵を失った
                     於天神930320/1133
 前章の終わりで、何を書いたらよいのか分からなくなった。
というより、何を私は書きたいのかが分からなくなった。
 私以外の誰かが、帰依者という名前において、サイババに質問をして、こういう答えを得ましたと報告しているのを紹介したり、哲学的傾向の帰依者がサイババにインタビュ−して、ある観念的整理ができて、それを理論として発表し、「この内容はサイババとのインタビュ−に基づくもので、その発表をスワミが許してくださり、この書物の出版を祝福して下さった」と書き添えてあっても、それをそのまま翻訳して発表するということにも、全く気が乗らなくなった自分が、そこにいたのである。
私は早めに床に入って、サイラムを唱えていた。このラムはRAMであって、インド人式に巻き舌に発音せねばならないが、日本人にはLとRの区別がつかない。SAI RAMがうっかりすると、Salaam(サラ−ム)にもなりかねない。サラ−ムはイスラム教徒(ムスリム)の額手礼で、身体をかがめ右の手のひらを額に当てて行なうムスリムの敬礼である。
私は2月23日にボンベイの国際空港から大阪に帰ったが、前夜からアラビア海に沿った砂浜の観光ホテル(HOTEL SANDS)に一泊した。ここは外人用ホテル、つまり浴槽にお湯が出るホテルとしては中級であり、日本のビジネスホテル並みの料金で泊まれる。それでも、100ルピ−(=500円)で泊まれるインド人用ホテルの10倍であった。この本を読んだ人はこういう情報もメモしてボンベイに行かれるとよいと思う。あのホテルには「ナンミョ−ホ−レンゲ−キョ−」を唱える親日家の社長がいる。また、あのホテルのなかには、私が漢字で美羅留と名づけたカシミ−ル系のムスリムがカルペット(インド英語の発音だ)のよい店を出しており、ペルシア絨毯を日本の何分の一かの値段で売ってくれる。
私は美羅留の案内で、ホテルのレストランの値段の20%で食べられるインド人食堂に行ったが、そのあたりはムスリムの居住地で、私は或る商人に急にサラ−ムの敬礼をしたものだ。サラ−ムはユダヤ教徒のシャロ−ムと同根である。預言者ムハマッドはユダヤ教の影響下でアラ−の神に出会ったのだから、それは当然と言える。それはともかく、サラ−ムとサイラムは発音が全く違うのだが、日本人には同じように聞こえる。
とにかく、舵を失った。オ−ムサイラムを唱えて眠りに入った昨夜である。美羅留に会って、彼の痔の悩みを聞いてから、私も脱肛になり、帰国後24日たっているのに、それが治らない。美羅留から病気を貰ったと、どこかの拝み屋みたいに他人のせいにすることもできようが、そんなことをしても始まらない。私はサイババに、この脱肛を治してくださいとも祈った。9時間も眠った。11時に起きたら、脱肛はすこし軽くなっていた。ここで奇跡的に一晩で完治したとなれば、私は大喜びでサイババの霊験あらたかであることをここに書いたであろう。
サイババの奇跡は多くの人が語り伝えている。ある鉄筋コンクリ−トのビルを建築中、地盤がゆるくてパイルを打ち込めないことが分かって、責任者がサイババに相談に行ったことがある。サイババ(サッチャのほうだ)は「心配するな」と言って、掘った穴に入って行って、地盤を固めて出て来た。ビルは安全に完成した。物理学や建築学では分からない「奇跡」である。
プラシャンティ・ニラヤムには、「ミュ−ジアム」という世界の宗教や聖者のことをオ−ディオ・ヴィジュアルに説明する展示館がある。その日本宗教のコ−ナ−には、伊勢の神明宮の模型があった。3階まである立派な建物で、アシュラム内のマンディ−ル(神殿)の後ろの丘の上にある。入る前に、会場整理のために男女別々にキュ−(行列)を作る。女を何人か入れると、すこし待たされ、次に男が何人か入場を許される。ダルシャンやバジャンも男女別々に席を占めるから、それと同じだ。男女が肩を組んだり、手を握ったりして楽しく館内をめぐるというわけにはいかない。美女や美男を気にしないですむ思いやりであろう。しかし、中に入ったら結構まぜこぜになってはいたが。
何年か前、そのミュ−ジアムの建築中に事件があった。サイババは別の行事で現場にいなかったが、側近の弟子に、工事中のミュ−ジアムから全員を正午までに退去させるように命じた。ところが3人のアメリカ人だけがその命令に従わなかった。横梁が落ち、現場は瓦礫の山となった。その3人のアメリカ人は死んだ。
そういう話はいくらでもある。もう一つの事故だが、アシュラム内で電信柱によじ登って配線工事をやっていた作業員が高圧電線に触れて、ころがり落ちた。皆が駆け寄ると、ビブチが全身に積もっていた。遠くにいたサイババが瞬間に聖灰ビブチで事故者の身体を覆ったのである。サイババはやがて現場に来て、感電した男を病院に運ぶように指示した。その日の夕方には、その男はまた配線工事の続きをやっていた。
「奇跡集」という本を書いたら、それは何十冊にもなるだろう。それを読んだら、また何万人か何十万人の悩める人々が世界中から集まってくるだろう。サイババはイサ(=イエス)と同じく、奇跡を喧伝するなと言っている。しかし、やはり口から口へと伝わる。私たちがプッタパルティにいたころ、外人用のシェッド(コンクリ−ト床にごろ寝をするだけの簡易宿舎)に起居していた全員は、最近サイが空に創った「新しい星」のことを知り、その話で持ちきりだった。「それは日本で見えますか?」と私が聞いたら、答えはNOだった。金星より明るかった。人工衛星みたいなものか、惑星が恒星か、私にはさっぱり分からない。その星の創造の意味を知っている人はひとりもいなかった。説明抜きで「奇跡的
神人サッチャ・サイ・ババの横顔