現象」がある。
サイの額には、やはり最近AUMの梵字が刻まれるようになった。その字は、生まれた時からあると言われる足の裏のAUMと同じである。その足裏の香木による模造品からは、いつも香油が湧き出しているのを、私たちはコ−ヴェリ川のほとりにある孤児院で実際に見た。その孤児院の長であるヴィラパン氏はむかし密輸をやっていたが、サイババの諭しで改心したときに、ご褒美として貰ったサイババの写真から毎日ビブチが噴き出し、同じくご褒美として頂いたペンダントトップ二つ(サッチャ・サイとシルディ・サイの写真がそれぞれにある)からは、これまたアムルティ(甘露)が毎日間断なく湧き出していた。そのことは私の前著「大聖シルディ・サイ・ババ小伝」にも書いた。その甘露は、私たちはミネラルウォ−テルの空き瓶に入れて日本に持ち帰った。私の分も皆にわけたので残りは少ないが、まだ数滴ある。 それを一滴、いま頂いて、「舵のない私」を見ている。舵はないけれども、八方破れでこのようにワ−プロの指は進んでいる。サイラムはサイラマとも言い、「各人の心のなかに純粋の悦びとして常住する神聖原理。帰依者によってバガヴァン・スリ・サッチャ・サイババに与えられた一つの名前で、常時のサダナとしてサッチャ・サイを目に浮かべるときに絶えず反復して唱えることになっている」と、ヒスロップは定義している。
(上の文のサダナというのは、「毎日の生活における霊的な実行。頭と心から幻妄を除き清める言葉、想念、行為」であると、これもヒスロップの定義。)
ついでに、ヒスロップに従えば、サイというのは「万物の聖なる母」である。シルディ・サイ・ババの小伝を書いたガングリ−は「神、われらとともにあり」と定義している。一つの単語の定義でも、人によりさまざまのようだ。
サイババが帰依者に語る言葉はすべて「応人説法」であり、「待機説法」であると、私は考えている。同じ人でも、「機会」が異なれば、まったく違うことをサイババから聞かされるかもしれない。それは外側から見れば矛盾する内容かもしれない。しかし、すべては「同じ源」から出ている。ヴェ−ダ(インドのバラモン教の根本聖典)の一語一語はマントラだと言われる(サイババの言葉)。マントラには力があり、古代インドの航空機はマントラで飛行したと言われる。しかし、アヴァタルはマントラを与えない。
クリシュナは5000年前のアヴァタル、ラマまたはラ−マは25000年前のアヴァタルと言われる。この件に関係して、サイとヒスロップの問答を次に紹介する。


9.人間の形は違っていた

ヒスロップはこう言った。「前にスワミが言われたことですが、われわれが今日もしラ−マの姿を見ることができたら、大変驚くだろうということについて、何か?」
サイの答えは次の通りだった。「どんな時代にも、それぞれの状況と伝統と価値があります。人間のすべてがわれわれと同じでないとしても、驚くには当たらないのです。こんにちですら、そういう相違は実際にあります。アフリカの森の中に入ってゆくと、そこの原住民には何が美しいかということについて、かれら特有の考えがあります。たとえば、彼らは唇や鼻の穴や耳をねじ曲げたり、妙な形にしています。ラ−マの時代よりもっと昔になると、人々は寸法の単位として、指の先から肘までの距離を使いました。その頃の人間の身長の標準は、この寸法単位の14倍でした。そのようであれば、人間の身長は均整が取れていたのです。ラ−マの時代はトレタ・ユ−ガと呼ばれますが、身長の標準は今言った基準寸法(指先から肘まで)の7倍に減っていました。カリ・ユ−ガ(現代)では、3.5倍になっています。ラ−マの様子は神聖な魅力に満ちていたと言われています。彼の目鼻立ちは完璧で、彼を見るすべての人を魅了したのです。彼の全身の調和も完全でした。身長と手足の長さは完璧な均整を保っていたのです。」
ヒスロップ「われわれが本で読むと、悪魔ですらラ−マの魅力には抵抗できなかったとありますが。」
サイ「その悪魔の名前はヤクシャですが、彼らもラ−マの魅惑的な顔と姿を見ると、その前にひれ伏しました。ヤクシャは歪んだ顔をしていました。鼻が欠けていることもありました。ときには、目が大変落ちくぼんでいました。」
ヒスロップ「クリシュナはどうですか? どんな様子をしていましたか?」
サイ「クリシュナでは、状況が少し違ってきます。彼は人々を引き付ける性質を持っていました。彼を見ると、すべての人は引き付けられて、傍に寄らないわけにいかなかったのでした。」
ヒスロップ「クリシュナはとても若かったのではありませんか?」
サイ「クリシュナはいつも若かったのです。人間の年齢でいえば、6歳か7歳でした。ゴ−ピ(ゴクルの村の女たち、クリシュナの最高の帰依者−−訳注)は彼を子供として可愛がりました。」

指先から肘までの長さそのものが、時代(ユ−ガ)によって違ったであろうから、以上のサイババの説明でも、ちょっとラ−マの姿は想像もつかない。しかし、比率が現代の3.5倍に対して7倍というのであるから、大変な巨人のように思われる。
美醜の感覚が現代でも、人種や部族によって異なるというのは、どうにか理解できる。私は金髪の西洋美人を日本の女よりもよほど美しいと考える性向を持っているが、欧米人の男は日本女性を美しいと思う場合が多いらしい。また、ある種の白人の男が黒人の女に引かれるというのも、美意識が私と違うのであろう。
エドガ−・ケイシ−のリ−ディングでも、アトランティス大陸には異様な人類がいたとあった。牧羊神や半人半獣や人魚など、古代伝説にはさまざまの「奇形」が登場する。古代人類の記憶ではあるまいか。

10.無題

またまた舵を失った。これは「横顔」であるから、散発的な断片収集でいいのだろう。 サイババに即し、また離れて、船を進めるしかない。この本は3月24日に打ち切ることにしている。あと4日ある。時間切れで本も終わりである。月末にはカイロプラクティック翻訳という食業をやらねばならない。「何を食い、何を飲まんと、思い煩うことなかれ」とイサは言った。「日用の糧を与えたまえ」と祈れとも教えてくれた。毎日の綱渡りのような生活が頭に浮かぶ。それはそうであろう。イサの弟子たちは、全財産を貧民に施して、そのあとは原始共産制のようなコミュ−ン生活をしていた。財産をプ−ルして、当座食べてゆくだけの金は残していたようだが、飢えた人々が来て施しを求めたら、持っていたものをみなやってしまい、あとは祈っていたかもしれない。私がインドの乞食さんに閉口したほど、「自分を護る」ということはしていなかったに違いない。教会の維持のために信者から月収の10分の1を取り上げる今のキリスト教牧師は、ユダヤ教の什一献金の制度をうまく利用しているだけで、原始キリスト教徒の生活とは無縁のものである。
サイババは献金を受け取らないし、あらゆる行事に会費というものを設けない。超越瞑
神人サッチャ・サイ・ババの横顔