想のマハリシはイニシエ−ションの際に、入門者から1週間の収入を徴収する。月収100万の社長からは25万円を取るわけだ。完全な商売である。キリスト教会では献金袋を回す。千円入れるにも抵抗がある。恥ずかしげに小銭を入れたりする。私は長年、神社仏閣に詣でるときにお賽銭箱には、あまり入れないようにしてきた。御利益をお金で買うのが厭なのである。一円玉や5円玉を入れる。入れないこともある。その代わり、拝礼は念入りにやる。透明な心にしてくださいと祈る。お願いの筋はあまりないが、あってもそれがゼロになるまでは祈っている。
ヒスロップも或るとき同じようなテ−マをサイババに提出した。「神さまは全知でありますから、この人間に何が必要かはご存じのはずです。だから、一々願望を申し立てなくてもいいのではありませんか?」たいへん尤もな質問と思ったが、サイババは意外な返事をした。
「それは違うよ。お母さんが赤ちゃんにおっぱいをやるときのことを考えてごらん。赤ん坊がワアワア泣く。すると、母親が駆けつけて来て乳房をふくませる。神と人間のあいだも同じですよ。神さまにお願いしたいことは、一々事こまかに申し述べなさい。」
ところが、別のときには同じサイババが「神は何でもご存じだ。全く心配することはない。人間が物質や肉体に同一化していれば、悩みは絶えない。一つの欲望を叶えてもらうと、また新しい欲望や願望が出てくる。きりがない」と言っている。どちらを取ったらいいのか。その人その人である。ヒスロップは恐らくあまりにも観念的な人間であったのだろう。肌で感じる母親のような愛を神に抱いていなかったので、サイババは応人説法として、あのように説いたのだと思う。
人間、特に男は母親への執着を断ち切ることによって、独立し大人になると思いがちである。ママコンというのは侮蔑の言葉に聞こえる。女はいい。自分がすぐに母親になるから、自分のママはそのまま今の自分であって、何の対立もない。男は必死に母から自分を切り離し、あとで女を抱くようになると、意志で抑えつけてきた「母恋し」の気持ちをその「女」にぶつける。おっぱいをまさぐり、吸ったり噛んだり、痴態の限りを尽くす。そして、日本の男と来たら、女房を「母ちゃん」と呼び出す始末である。
だから、サイババは天地父母神である絶対神を「母」と思えと指導する。コンプレックスが取れるだろう。
どこの国でも、神さまというと、白髭を靡かせている老人をイメ−ジする。エホバもアラ−も日本の神さまも大体同じだろう。辛うじて、キリスト教にはマリア信仰がある。私があるとき、「天のお父様!」と絶叫して狂ったように祈るプロテスタントの教会に行ったことがある。イサも天父を崇めたから、彼らもそれに倣ったのであろう。私はためしに「天のお母さま!と祈ったらいけませんか?」と牧師に尋ねたら嘲笑された。キリスト教のABCも分からん奴と思われたのであろう。だから、マリア信仰にトチ狂っているカトリック信者のことを、新教の人々は馬鹿だと思っている。
しかし、インドには女神がたくさんいる。カ−リ−神などもそれだ。インドの聖者が女神に祈って神実現を得たというような話を聞くと、クリスチャンは異様な感じを受ける。多神教の迷信だと思うのだろう。ムスリムも同じである。インドのように偶像があちこちにあるという宗教風土は以てのほかである。神はアラ−だけであって、その絵姿や彫像を崇めることを許さない。日本人はどうだ。インド人に近いのではないか。
サイババのアシュラムにガネ−シュの像があった。象の像である。シヴァが立腹して息子のガネ−シュの首をはねた。あとで可哀相に思って、象の首をくっつけた。それだけ聞いたら、何という野蛮な宗教だ!と思うだろう。釈迦がそういう宗教から離れて、あの哲学的な仏教を樹てたのも無理はないと思うかもしれない。事実、仏教徒にとって、ヒンドゥ−教は外道である。そのくせ、毘沙門天その他の四天王は外護(ゲゴ)の神として、仏教に取り入れられている。四天王が仕える帝釈天はもともとインドのインドラ神である。日蓮に到っては、ご本尊のマンダラに天照大神の名前まで入れている。日本人の崇める神々を包摂したのである。
預言者ムハマッドは彼流のやり方でユダヤ教とキリスト教を包み込んだ。しかし、ゾロアスタ−教、ヒンドゥ−教、仏教は無視した。預言者系列に入らなかったからである。ゾロアスタ−教はペルシアのものだったが、立教は紀元前6〜7世紀と古い。イランのササン朝(226〜651)のときに国教として栄えたが、この王朝はアラビア人に滅ぼされて、ペルシア全域はイスラム教に改宗した。
サイババはシルディ・サイの事績で特に明らかなように、地球上の全宗教に対して寛容である。神は一つであって、元来は姿形と名前を越えているから、人間側がどういう名で呼び、どういうイメ−ジをかぶせても構わないわけだ。バジャンですら、インドの難解な言葉やメロディ−に煩わされず、各国人がそれぞれの言語と音楽感覚でバジャンを作って歌えばいいともサイババは言っている。日本にも日本語のバジャンを帰依者たちが作ったが、メロディ−だけはインドのままである。歌った人はやはりサイババが作ったバジャンのほうがいいと言っている。日本のメロディ−を作曲するところまでは行っていない。サイババが日本語のバジャンを作れと言ったので、その通りにしただけであろう。魂が入っていない。私はメロディ−も自前で、私のバジャンをよく歌っている。しかし、それはサイババのものと全く異質であるから、日本の帰依者たちがそれを歌う気づかいは全くない。 サイババの理解の仕方も、私のは決して正統的でない。異端である。サイババの帰依者で天理教の人はいない。スブドの霊的修練をやっている人もいない。私は天理教や仏教やキリスト教やイスラム教からも異端と思われるであろう。それぞれの信仰形式は分かるが、それに拘泥しないからである。宗教対立は困ったものだと思い、はやく宗教が消滅する時代が来ないものかと常日ごろ呟いているからである。
宗教が消滅する時代というのは、宗教と政治、宗教と教育、宗教と経済など、あらゆる障壁が消失する時代である。神に名前をつけてもいいが、つけなくてもいいという時代である。インドではこういう思想は育ちにくいだろう。あの国は神の「形」と「名」が氾濫する国だからだ。

11.刻限ばなし

インドには時間に7層の次元があるという哲学がある。難しくてよく分からない。日本人の頭脳はもともとあまり哲学的ではない。インド・ア−リア人種と違うのである。努力すれば分からないことはないが、そんなものは無くてもいいだろうという所にまた帰ってしまう。
哲学的でもいいが、もっと直感的に、言葉を節して簡単に表現できないかと私は考える。やはり芭蕉の国である。「言挙げせぬ国」である。禅が根づいた国である。
サイとヒスロップの対話を見ていると、随所に禅問答のような呼吸を感じることがある。ヒスロップに限らないが、質問者は往々にして自分の気に入る答えをサイババから引き出そうとする。神を自分の思想に役立てたいのである。全託(サレンダ−と英語でいう)が神に対する人の唯一の態度だと観念で承知していても、そんなことはなかなか出来るものではない。四六時中それができたら、その人はMAN−GOD(人神)であろう。生き仏と言ってもいい。
神人サッチャ・サイ・ババの横顔