疑問は人間のエゴから出るのがほとんどであり、全託が本当に出来れば、質問もなくなってしまうものだ。神との対立関係があるからして、問う者(人)、答える者(神)、そして答えの内容(物)の三つが揃う。一つに戻れば何もない。神は一である。故に私の筆名はじん・はじめ。
「平地に波瀾を起こす」というのは禅語。平たい地面に波が立つわけはない。無理を承知でやる。何のためか? 分かり切ったことを分からせるためである。「橋は流れても水は流れない」などどいう馬鹿馬鹿しい公案がある。これを捕まえて何年も何十年も、あるいは一生苦労する。そのうち、解答らしいものが出来上がると、老師の所に見参して、「これではどうですか?」と伺いを立てる、すると、老師の境地に応じて、「それでよし」とか「まだまだ」とかのお答えがある。弟子が何かの弾みで老師の上の悟りを開いたとすると、老師の頭を殴りつけて「分かったか!」とかいう。猿芝居である。
釈迦が花をひねったら、大迦葉が微笑して全部分かったという。それが禅の始まりであるが、その分かった内容が現代まで伝わっているかどうかというと、これは問題だ。妙心寺や大徳寺や永平寺に出かけて、今一番偉い人に尋ねてみても、何を教わるかはわからない。日蓮は禅を嫌って「天魔」と罵った。仏教はバラバラであるが、創価学会の池田氏は、直接は関係のない印度のヒンドゥ−教徒とは仲よくしている。キリスト教の人とも仲良しだ。近親とは対立が激しい。本願寺の法主(ホッス)と握手などはせぬ。
シルディ・サイ・ババは、ヒンドゥ−教とイスラム教の対立を消そうとしたが、今の日本にはもっと複雑な宗教対立がある。カトリックの娘はオ−ム真理教の息子と結婚することは不可能である。どっちかがどっちかに改宗せねばならない。だから、宗教は消滅したほうがいい。全人類が「名もなき神」を一つ信仰すればそれでいいのである。宗教はRELIGIONの訳語であろうが、「再び結び直す」必要がなくなれば、レリジョンは消えてなくなる。簡単な話だが、これが殆ど人には通じない。特に信仰の強い人に通じない。無神論の人にはこの問題さえ存在しない。
そういう人間である私が2月18日にサイババの「大凝視」を受けて、無量のことを理解した。「理」で解ったというより、「魂」で通じた。

前置きが長くなったが、天理教祖・中山ミキに「刻限ばなし」というのがあった。刻限が来ると、「親様」(教祖の呼び名)が突然神さまの言葉を話し出す。側近の者はいつでも起き出せるようにして、親様のそばに眠っていた。そして、メモを取った。丑三つ刻かいつかは予想がつかない。常人の生活時間とは関係ない。神さまのご都合によるのである。神には神の時間があるのだ。それと人間の意識時間とカチ合う。うまく通じることもあるし、まったくの誤解(人間側の)に終わることもある。
サイババの話も「刻限ばなし」に近い。別に真夜中突然に、ということはなくても、インタビュ−でサイババの前に出たときは、そこに「神の時間次元」の世界が広がっている。平生尋ねたいと思っていたこともコロリと忘れてしまうかもしれない。尋ねるつもりもなかったことが口を突いて出るかもしれない。すべては神人のたなごごろの上に乗っている。 盤珪禅師は質問者に「それは問い置きに問うことか」と反問することがままあった。問い置きとは、前々からこれを訊こうと胸のなかにしまっておいて、それを記憶倉庫から取り出して尋ねることである。盤珪は常々「不生の仏心」で生きよと教えていたから、その不生の「気」からおのずから浮かんだ質問を大切にしたのであろう。経文を読み立てることは「目をつぶす」と言ったし、超能力で和尚を試そうとする手合いには「身どもはそのような狐狸のわざはせぬ」と突っ撥ねた。商人からは言い値で物を買い、値切ることをしなかった。「事事物物は時の成り合い」として、万事に恬淡(テンタン)としていた。
天理教祖はみずから「出直し」(転生、生まれ変わり)をしなかったが、外孫の真之亮を出直させて、東京にいた伊藤青年(芹澤光治良先生の著書参照)の身体に住まわせ、今は大徳寺昭輝と名乗るその人(湯河原在住)を「社(やしろ)」として、いろいろ活動されている。
芹澤光治良と大徳寺昭輝の二氏は言わば「親様」の通訳であるが、通訳の頭脳構造や地上経験の関係が限界を作る。このお二人はサイババのことをよく知らないので、私はいま特に若い大徳寺昭輝さんにサイババのことを知らせ、インドに会いにゆくように勧めている。大徳寺さんはロ−マ教皇には会見したことがあるが、滅び行くカトリックの代表者に会うよりも、サイババにインタビュ−したほうがどれだけいいか解らない。
サイババは世界のどんな僻地から人が訪ねて来ても、その人の言語で話すことができる。神戸の星野さんも英語が解らないので、ミュ−ジアムの下の木陰で疲れて昼寝をしていたら、サイババが急に来られて、「日本語で悟りの話をしてあげようね」と懇切に相当長く話をされたということである。星野さんはシルディ・サイ・ババの帰依者だったという前世の因縁があったので、特に大切に扱われた。彼のサイババ写真からもビブチが噴き出ている。
「大凝視」に会ったあのときも、サイババは私の過去現在未来をお見通しであっただろう。というよりも、私の魂が誕生したとき(何万年前か分からない)から、私の進化に付添い立ち合っていた原動力(つまり神)があの「大凝視」のなかにいた。
私はスブドのラティハンをやっていた昭和30年代に、自分が7000年前にカシミ−ルで暮らしていたことを思い出した。あの辺の高峰を私のアストラル体が飛んだこともあった。ボンベイで出会ったカシミ−ル人・美羅留の縁で、今生は一度あの「パラダイス」に赴きたいと思っている。


12.カルマと恩寵

カルマは行動という意味のサンスクリット語である。また、過去の行動の結果として人が経験せねばならない反応(反作用)をも意味する。エドガ−・ケイシ−は原因と結果と説明した。
ヒスロップがあるとき、「神は現在のカルマをも赦しますか?」と訊いたことがある。サイババは次のように、長い答えをなさった。
「カルマには三つの種類があります。過去と現在と未来です。現在のカルマは継続せねばなりません。それは後ろに土埃を巻き上げて走る馬車のようなものです。馬車が止まれば、その上に埃が積もります。ここで、土埃に追いつかれないようにして、馬車が永久に走り続けることはできないのかという疑問が起こるかもしれません。しかし、馬車は埃り道をいつまでも走る必要はないのです。埃のない舗装したハイウェ−に出ることができます。ハイウェ−というのは神の恩寵のことです。恩寵の恵みと、バクティ(献身、帰依)の恵みとは違います。苦痛を訴える患者には、鎮痛剤を医者は与えます。ところが、恩寵は手術のようなもので、苦痛の根を取り去ってしまいます。この点、取り違いをしないようにしなさい。恩寵はカルマを完全に除去するのです。[1968年まで有効]というレッテルが貼られた薬瓶みたいなものです。1973年にその薬を服用したら、その薬は全く効かないでしょう。この肉体は薬瓶です。肉体のなかのカルマは薬に当たります。神は薬が効かなくなるように、薬に有効期限のレッテルを貼るのです。」
サイババの説教はイエス・キリストのように巧みな比喩を用いる。
ヒスロップが続けて、「しかし、スワミ、恩寵という調剤はめったにないものでしょうね?」と尋ねたが、サイババの返事は簡単だった。
「恩寵は手に入れるのが難しいと人は考えるかもしれません。しかし、それは違います。恩寵は、その方法が分かり、それを用いさえすれば一番簡単に手に入るものです。ギ−
神人サッチャ・サイ・ババの横顔