17.サッチャ・サイの生い立ち

カストゥリ博士は、その「神生伝」の第2部の冒頭に、サイババ誕生の年から35年間(1926〜61)のことを「要約」している。それは15頁にわたるものだが、それをさらに要約してみよう。
書き出しは博士独特の詩的な散文なので、その香りを嗅いでもらうために、私の日本文に移してみよう。
「ピンクがかった茶褐色の丘が輪のように取り巻いている。そのなかの広い深い一つの谷を一本の川が穿って、600年前に或る皇帝が建設した盆地のなかに流れこんでいる。それが、プッタパルティの村が心地よく身を横たえている環境である。そこは、過去に近隣を支配していた一人の族長の本拠であった。その後、この土地は荒れ果てて周囲から孤立したが、そのまま息づいて数々の聖者や学者を生み出す苗床となった。」

あの村に南方からオンボロタクシ−で入った私は、運転手アショカンの指さすがままにまざまざと自分の目であの景観を見た。荒涼たる原野と丘陵の果てに、突然、あの盆地が現われ、美しい村の門が見え、多くの人々が家々に住んでいるさまを一つの奇跡のように茫然と眺めていた。ほとんど緑が見えないこの村の人たちはどこから食料を手に入れるのかと、一瞬不思議な想いがした。
村に入れば、小さな店が立ち並び、今まで通って来た町のように沢山の乞食さんもいた。映画館と酒場がないというところが、他の村や町と異なっている一つの点であった。
  その昔からの族長の家の名がラジュであった。ラジュ家の人々は村人を代々指導し、若者に教育を授けていた。百歳を越えたコンダマラジュという老聖者がいて、クリシュナ神の配偶者であるサッチャバ−マのために寺を建てた。この老人は古代の聖典に精通していた。彼の長男のヴェンカッパ・ラジュは、シヴァ神のための寺を創建した遠縁の男の娘を妻にめとった。その娘の誕生はシヴァの寺が完成したあとだったので、その寺の名前を取ってイスワラ・アンバと命名された。この二人は敬虔な夫婦で、静かに心満ち足りた日々を送っていた。ヴェンカッパの唯一の楽しみは、古代の神々の叙事詩を村の芝居小屋で劇として上演するときに、その一つの役を演ずることであった。この夫婦に一人の息子と二人の娘があったが、1926年11月23日に、もう一人の息子が誕生した。サッチャナラヤ−ナと名づけられたその子は、生後まもなくして、その天性と行動において他に類を見ない「神聖な存在」であることが分かった。
彼の遊び友達は彼を「グル」と呼んだ。というのは、彼はいつも幼い友達の間違った言動を戒めたり、悲しいことがあれば親身に慰めたりしてやっていたからである。その子は機嫌を悪くしたり、疲れた様子を見せることが全くなく、いつも友の面倒を見ていた。
彼は惜しげもなく人に物を与えるのが好きで、空っぽの袋から美味しいお菓子、鉛筆、消しゴム、おもちゃ、花、果物などを子供たちのために出してやった。「どうやって、そういうものを手に入れるの?」と聞かれたとき、ラジュ少年は次のように答えた。「ああ、村の女神さまが僕の欲しいものを下さるのさ。」
彼が小学校に入ってから、不思議なわざはますます増えた。学校で、彼に付けられた新しい仇名は「ブラ−マジナニ」であった。その意味は「内部の真実を明らかにする知恵を得た者」であった。僅か6歳の男の子に、大変な名前がついたものである。6歳になったとき、サッチャナラヤ−ナは一つの劇的な奇跡によって、自分の神秘を表てに出そうと決心した。それは、彼が教室で学業に無関心な様子をしていたので、教師が「お前はベンチの上に立っていろ!」と厳命したときだった。彼は自分の「意志」で、その教師が椅子に身体が膠着して離れられないようにした。教師は閉口して、サッチャにベンチから降りることを許した。その事件が地域の評判になった。それでも彼は素直で人々に優しく、村の男の子たちを集めて祈りのグル−プを組織した。そして、彼は皆を引き連れてあちらこちらに行き、彼が自分で作り教えてやった讃美歌を一緒に歌った。
彼は舞踊と音楽、さらに演劇にも天才を発揮した。遂には、ドサ回りをしていた劇団までが彼の才能に頼るようになった。彼は大胆にも劇団のために歌の作詞をやり、台詞まで書いてやった。12歳にもなったかならなかったかの頃である! 彼は兄についてカマラプ−ルやウラヴァコンダに行った。そこには、兄がテルグ語の教師をしていた学校があったからである。そういった場所の学校で、サッチャナラヤ−ナは教師たちのレベルを越えた人物となった。なぜなら、詩人、劇作家、スポ−ツマン、歌手として抜群の才能を輝かせたからである。そのほかにも、紛失した貴重品の発見、他人の心の透視、未来の予知、過去の調査などに神秘的な能力を持っていた。彼は町の人気者になり、悩んでいる人たちや社会の下積みの人々から頼りにされるようになった。

中学一年は普通に過ごしたが、二年生になって数週間たつと、自分の天命を抑えきれなくなった。前から、家庭や学校の繁雑で無意味な生活のなかに自分の威厳を埋没させておくことに耐え難くなっていたのである。そこから、この書物の前のほうに、すでにサイババ自身の言葉で紹介したハンピへのピクニック、少年が神殿の内部と戸外に同時に存在したというあの事件が始まるのである。その町は、ヴィジャヤナガル帝国の古都であった。そこのヴィルパクシャ寺院にはイスワラの神像が祀られてあったが、彼はそのイスワラとして一同に姿を現わしたのだった。
1940年3月8日に、彼は肉体を抜け出し、非常な災難に遭っていた一人の帰依者の救助に行かなくてはならなかった。このことが彼の兄や他の人々によって誤解され、さまざまの間違った解釈を生んだ。サソリに刺されたにちがいないとか、蛇に噛まれたとか、失神だとか、ヒステリ−の発作だとか考えられた。医者たちは言うまでもなく、正しい診断を下すことができなかった。イカサマ医者や呪術師のもとにも連れて行かれたが、彼らは見当違いの処置をするだけだった。散々な苦しみに会わせたが、彼らとしては、この少年はどんな苦痛にも平然と耐えるという事実を証明するに留まった。
最後にプッタパルティ村に戻った少年は、1940年5月23日に、集まってきた全ての人たちが差し出す手のひらに贈り物を振りまきながら、自分は人類を堕落から救うために再来したサイババであると宣言した。そして、毎週木曜日に自分を礼拝するように一同に告げたが、それこそ彼が最初に人々に与えた霊的訓練であった。ウラヴァコンダで学校に通っていたころでも、サッチャナラヤ−ナはシルディの大聖サイババの再来として礼拝されていた。誰よりもサッチャナラヤ−ナを愛していた教師のマンチラジュ・タミラジュは、この木曜日の集会について書き残している。それによると、彼の生徒はサイババとして、祈りに集まる人々に聖灰や他の恩寵の癒しの贈り物を与えたという。そのなかには、サイババがシルディ村で着ていたガウンの切れ端などがあった。シルディ・ババは1918年に埋葬されていたのに、サッチャは手をひと振りしただけで、その布を出したのである。何百人という人々が彼の回りに集まり、ありとあらゆる質問をしたが、彼は静かに正確な返事をした。


18.タマリンドの木

私がある日、プッタパルティの町筋を歩いていたら、見覚えのある少年(小学校4〜5年と思うが、学校には行ってないようだった)が私に話しかけてきた。「ツリ−、ツリ−」と言う。何の木か最初わからなかったが、そのうち前に本で読んだことのある「奇跡の木」であることを思い出した。それは子供のときのババがその木からさまざまの物を取り出して、友だちに与えたタマリンドの木のことだった。商店街の裏に入ってすぐの小山の上に
神人サッチャ・サイ・ババの横顔