ここそれはあった。私は天理教出身の19歳の若者・蓬田君とその小山に登った。
タマリンドは熱帯地方に産するマメ科の常緑高木である。登り道の途中に一人の老人が座り込んで、楽器で伴奏しながらバジャンを歌っていた。「木」を見てからの帰り道に、私はその老人のそばに座って暫く音楽を聞き、なにがしかの小銭を喜捨した。奇跡のタマリンドには、日本の神社のように白い紙が枝々に結わえつけられていたが、それは御神籤ではなく、帰依者たちの願いや感謝が記されている紙片のようであった。
少年サイはこの枝から、林檎、マンゴ−、イチジク、バナナ、葡萄などを自由に取り出して、帰依者たちに分けてやったのである。
そのころのサイババは、自分がシルディの大聖の生まれ変わりであることを証明する種々の奇跡を示したが、その幾つかを挙げてみよう。ある木曜日、彼は一人の主婦にこう告げた。「僕はあなたの社(やしろ)に一枚の絵を入れておいたよ。行ってそれを拝みなさい。」彼女は近所の人を何人か連れてその社(shrine)に急いで行った。そして、ドアの錠前を外し、野猿が入り込まないように何重にも下ろしてあった窓のシャッタ−を開いた。そこにはシルディのサイババの絵が一枚飾られてあった。そのころ、サイババはほうぼうの家庭のなかにそのような絵を入れたり、創ったりしたが、プッタパルティからは遠方(直線距離でも900KM)のシルディ村に昔住んでいたという、見たことも聞いたこともないその聖者の姿を、村人は初めて知ったのである。
タミラジュの体験は驚くべきものだった。サッチャナラヤ−ナ(サイババの幼名)は或る夜に彼の家に入ってきて、質素なその家の壁の上に、まるで映画のように、ヴィシュヌ神の「十の化身」の尊像を映し出し、そのほか聖典に登場する多くの聖賢の生けるごとき御姿を示した。また別の日に、サッチャナラヤ−ナは同じタミラジュに、今までにない変わった方法で、シルディ・ババの一枚の絵を与えた。開いた窓から一匹のマルハナバチが飛び込んできた。蜜蜂の脚には何かがしっかりと巻きつけられていた。ハチはそれを落とすと、どこかに飛び去った。何かと開いてみると、シルディの大聖の絵だった! 数日後、こんどは窓枠に腰をかけていた一匹の猿が、小さい布束を一つ室内に放り込んだ。タミラジュはこう書いている。「その布を開いてみると、そのなかに砂糖菓子を丸めたものと、プッタパルティに帰っているはずのサッチャナラヤ−ナからの手紙が一通入っていたではないか! そして、その手紙には次のように書かれてあった。"先日、マルハナバチに託して私(!)の絵を送りました。今日はここにあなたのためにプラサダムを送ります。"」 やがて、完全な顕現と最後の宣言の日がやってきた。1940年10月20日がサイの選んだ日だった。その日、いつもより早く学校から帰ってきた彼は、兄の家のドアの外に教科書を放り捨てた。その物音は何だろうと外に出てきた義理の姉は、次の言葉を聞いて驚いた。「僕はあなたがたに属するものではない。僕はこの家から出ます。なすべきことが僕の前にあるからです。」それから彼は歩み出した。「僕に帰依している人たちが僕を呼んでいます。僕がこの世に来た目的の仕事はまだ終わっていません。これから仕事に出かけます。」活発に歩いてゆく少年を近所の学者サラヤ−ナ・サストゥリが走って来て呼び止めた。実は、この学者は少年を半ば恐れていた。というのは、ある日、この学者が難解なサンスクリット語の聖典の解説を人々にしていたときに、少年が彼を呼び出して、その解釈の誤りを訂正したことがあったためだった。さて、その学者が少年に説諭を始めたところ、彼の頭の回りに後光が射しているのに気がつき、そのまま黙ってしまった。
兄がサッチャナラヤ−ナに家に戻れと言ったときにも、この不思議な弟は次のように答えただけだった。「幻は去ったのです。僕はもはや兄さんのものではありません。僕がサイババだということを、覚えておいてください。」
ババは、広い邸宅を構えていた消費税査定官の庭に入って行き、そこの木の下に座った。そのうち、町中の人がそこに集まって来た。すぐに、彼はそこでバジャンを教え始めたが、その歌声は速やかに劇的にこの広い亜大陸の隅々に広まり、何十万、何百万という人々の習慣と生活態度と性格に革命的変化をもたらしたのである。


19.裸の行者

サイババは肉の「両親」によってプッタパルティに連れ戻され、村から出ないように哀願された。今度は毎日が木曜日になり、人々の大群が彼のダルシャンと祝福を受けるために集まり出した。ババは村での時間の大部分をブラ−ミン・カルナム(代々の村の会計役)の家で過ごした。その家のスバンマ老女は遠方から訪れる巡礼たちを親切にもてなした。ババは多くの人の願いを叶えたが、そのなかには、前世のサイババが住んでいた古いモスクのドワラカマイのビジョンを見せることや、潰瘍や病苦の治癒も含まれていた。夜になると、多くの帰依者たちとともに、チトラヴァティ川のほとりの砂地に出て、砂から彫像や絵や菓子や果物を作り出した。
多くの者に霊的指導も与えたが、ある日のこと、プッタパルティに一人のびっこの修行僧がやってきた。彼は二つの誓願を立てていた。一つは、一生沈黙を守り、言いたいことがあれば、それを字で書いて示すことであり、もう一つは、一切の衣服を拒絶することだった。ババはこの露出主義の苦行僧の内部を透見し、彼に二つの案を出し、どちらかを選ぶように言った。一つは、修行のために森に籠もることで、そうすれば食物と住居を確保してやるというのだった。それは、サイの帰依者たちが醜い裸体を見ないですむし、精神的な負担もなくなるからであった。もう一つの選択は、行者が昔どおり話をし、衣服をまとうことだった。そうしても霊的努力の妨げには決してならないとサイは保証した。この出来事はサイが16歳にもなっていない時の事件だった。このことで、間違った道を歩んでいる人たちに正しい道を示すのがサイババの使命だということが、人々によく解った。


20.借金で夜逃げした男

ある帰依者はひどい借金を背負い込み、首が回らなくなったので、ビルマ(今のミャンマ−)かマレ−半島に逃げようと決心した。船の切符を買うために、彼はマドラスの港に行った。ところが掏摸(スリ)に遭って文無しになり、スゴスゴとホテルに帰ったところ、自分の部屋のテ−ブルにババからの手紙が待っていた。それを開くと、故郷に戻って勇気を出し、もう一度やり直しなさいという厳しい忠告が記されてあった。彼は素直にその命に従い、今では、そのとき見捨てる決心をした妻と子供とともに幸せに暮らしている。しかし、どのようにして、ババはこの逃亡者のマドラスでの住所を知ったのであろうか?
私は反省せざるをえない。私がサイババを知る前は、税金は払わないのが当たり前と信じていたし(資本家の政府に金を払うのは悪徳だと信じていた)、月賦や借金の踏み倒しも過去に何回やったか解らない。金とは関係ないが、少しでも気に入らないことがあると平気で妻子を何度も見捨ててきた。だが、いくら女房を取り替えても結果は同じことで、遺棄した妻の数は内縁を含め5人、子供の数は22人だが、そのうち最後の妻とそれからの6人の子供は辛うじて私と同居している。私が2月にインドに渡る前は、不心得にも、印度に行ったら「蒸発」するかもしれないと密かに考えていた。托鉢の苦行僧にでもなって、インドで果ててしまおうと思ったり、また一方では、離婚された身体だからインドの美人と再婚しようというような妄想までも抱いていた。
18日朝8時の「大凝視」には、去年8月18日の離婚(愉美子からの一方的決断だったが)の意味を私に悟らせる厳しいまなざしも入っていたが、それに気づいたのは帰国し
神人サッチャ・サイ・ババの横顔