ここて暫くたってからあとのことである。数字で正確を保するアヴァタルの親切で厳格なメッセ−ジには頭を垂れるしかない。
私の脱肛はまだ治っていない。カシミ−ルのカルペット輸入で大儲けをしようかと野心を起こしたあのボンベイの「砂浜ホテル」。絨毯商人・美羅留は26歳になって結婚ができず、脱肛と性器短小恐怖に悩んでいた。あれはそのまま私の過去と現在の姿ではなかったか。彼はイスラム教徒で豚を食べないが、6歳の夏休みの私は千葉の親類の家で豚を食べすぎて、ひどい便秘になり、その結果は脱肛の出血で、血の恐怖に襲われ、夏の暑さで化膿した肛門のために1週間に4日は家に籠もっていた。ある日、やっと歩けるようになって外に遊びに出たら、踏切りで列車と衝突した小型車の運転席に即死した男の脳味噌を見てしまった。6歳の子供の目に、あの柘榴のように割れた頭蓋骨と、おびただしい出血は少なからぬ衝撃だった。私は脱肛の出血のことも、踏切りの惨事も、両親には一言も打ち明けず、自分の胸にしまっていた。ひどく悩んでいたとは思わない。静かに自分の内外に起こっている人生を見ていたようである。あの夏は猩紅熱で、その家の二人の従兄が立て続けに死んだ。その悲劇に立ち騒ぐ大人たちを、やはりありのままに観察していた。痔の痛みで動けない子供はただ見るしかなかったのだ。私の父は、片腕を曲げたままのいつもの姿勢で、葬式に忙しく立ち働いていた。私の目はカメラのレンズのようだった。
あのころ、遠いインドの田舎で、同いどしのサイババは自分の悩みなどはなく、ひたすら周囲の大人や子供の救済に多忙であった。日本の静観的なこの子供を、60年後にインドに引き寄せようという神の計画がすでにあったのだろうか? 私は「大凝視」に会ってから、そういうことも信じるようになった。
私の亡父は或る時ヒョイと、「リンよ、お前は逃げてはいけないよ。逃げても逃げ切れるものではない」と私に言ったことがある。それは自分自身の過去の反省のようでもあり、同時にこの長男を戒める言葉のようでもあった。私は「逃げている」自覚が全くなかったから、「変なことを言う...」と聞き流したが、今になるとあれはやはり「親」を通じての「神」の言葉であったと思う。


21.一光寛解
於天神930322/1349
10時間も寝て、朝9時半に起きた。脱肛は寛解していた。便秘は10日ほどになっているが、渡印前のように気にしない。赤子のごとく、一日3回大便をしないと気がすまないという人もいる。常時20日秘結しても元気な人もいた。私も以前は便秘をすると死ぬのではないかという不安で、しょっちゅう下剤を飲んでいたこともある。
朝起きたら、ウグイスが鳴いていた。春が来ている。あすは彼岸が明けて、陰暦の弥生月となる。陽暦4月の初めには、この奥豊後でも桜が満開になるという。弥生は花なのだ。裏の畑の空豆も紫の花を付けている。久しぶりに郵便局まで歩いて行ったら、よその家の生け垣に沈丁花がもう花をつけていた。ジンチョウゲは沈香(ジンコウ)にそのかおりが似ている。ジンチョウゲはシナが原産であるが、沈香はインド・東南アジアが原産地。この香木を数年間地中にうめ、外部をくさらせると、樹脂の多い部分が残り、その上質ものを伽羅(キャラ)という。東洋で最高価の香(コウ)である。
東京オリンピック(昭和39年)の翌年、私は武蔵府中で道場を張っていた。その門弟の一人に伽羅という人妻がいた。もう50歳になっていたから、「門姉」というべきか。土佐の田舎から逃げてきた女である。夫が浮気をしたというので、10年間夫婦の営みを避け、もはや戻りようがないということだった。

サッチャ・サイに長らく師事・献身した或る西洋婦人(これは廃語か)が或るとき、こう述べた。「サイババにお会いすると、自分の過去が走馬灯のように繰り広げられて、最近の分から次第に整理がつきます。混沌としていた自分の過去が明らかに見えてきて、正邪善悪がおのずから弁別されます。わが身びいきというものがなくなるので、神の目で総べてが見えてくるのです。反省と整理がだんだん遠い過去に及び、幼年期、果ては生まれた時まで思い出されます。ありがたいことです。」
その先に行けば、前世の回顧と反省ということにもなるが、おおむねのクリスチャンは前世を信じないから、回想と整理はこの世どまりになるだろう。

伽羅の話を続けよう。彼女は私に執着した。何年かして、浜松に道場が移ってから、私は或る夜半、伽羅の黒髪(すこし薄くなっていたが)に火をつけ、ほとんど髪が焼け尽きた彼女を土佐に送り返した。後で聞けば、やはり夫のもとには戻れず、子供たちの家を転々として孫のお守りをしていたという。さまざまの因縁話があるが、今は割愛。
私の道場が越後に置かれたこともある。日本海沿いの能生(のう)という小さい漁村にもいた。そこには元三夫婦も私の二度目の正妻オリコとその6子もいた。オリコとは離婚していたが、私と愉美子も同居の道場生活だった。愉美子はその生活形態を嫌って、すでに生まれていた王玉(今は高2)を連れて、核家族を伊豆の下田に移すことになった。そのころ、私は愉美子に「東京時代で、一番忘れられない男は誰かね?」と訊いた。田中一邦の名が浮かんだ。私はすぐ一邦を招いた。彼はヨ−ロッパ・アフリカ放浪中にパリで結婚した妻とその子たちを連れて、下田に来た。私は御用邸に行く道筋に別荘風の家を借りていた。田中一家をもてなすため、御用邸の前を通って海に出て、水泳や魚釣りで、彼の家族を楽しませた。
二人、悪戯ざかりの男の子がいた。その長男が一光、今は20歳になっている。
去年、一光が骨髄癌にかかった。医者は時間の問題として匙を投げた。私は市川市で盛大に治療院チェ−ンを経営していた父・田中一邦に手紙を送った。「サイババしかないね。父子で印度に渡ったらどうですか」と書いた。父子は東京を中心とするいろいろの霊能者を渡り歩いていた。ある霊能者は言ったそうだ。「これはサイ小父さんでも駄目だな。本人の問題だ。」私は五反田に住む比良龍虎さんに会うように勧めた。龍虎さんはインド人だが、サイババの信任を受け、アジア地区の帰依者を束ねている宝石商である。
一光青年が比良龍虎さんを訪れる前に、比良さんは彼の夢を見たそうだ。初対面で、龍虎さんは「人間、死ぬも生きるも同じですよ」と青年に説いた。一光(敬称略)は彼なりの受け取り方をして去った。
私は2月7日に大阪からボンベイに飛ぶことにしていた。一光は父・一邦(同じく敬称略)と一緒の旅はストレスだと言って、成田から独りでエアインディアに乗った。父は一日遅れ、7日に成田を発った。 成田からのほうが早くボンベイに着く。空港に近いセント−ル・ホテルで田中一邦と落ち合う予定でいたが、はぐれた。菅原三郎(やはり、今後は歴史的人物として、敬称を略させてもらう)と二人で、ボンベイから国内航空でバンガロ−ルに飛んだ。前出の蓬田善弘君(19)が空港で待っていた。Yes,I see.も解らない人だったので心配していたが、天理の神さまにお任せしていたから何も心配しなかったという立派な若者だった。ポカンと3〜4時間立っていたら、日本語の解るインド人が来て世話をしてくれたという。
三人でバンガロ−ルに一泊し、翌日はサイババがお出でになるというホワイトフィ−ルド(ブリンダヴァンがそのアシュラムの名前)まで21KMをタクシ−で飛ばした。私た
神人サッチャ・サイ・ババの横顔