ここちはベンツでお着きのサイババを、正門で出迎えた。それから構内をブラブラしていたら、背の高い、国籍不明の痩せた男がいた。よく見たら田中一邦だった。
「どうしたの?」
「いや、今しがた、奥のほうを歩いていて、サイババは車しか見ませんでした。」
一邦は息子のことが心配で捜していたに違いない。ブリンダヴァンには4泊した。コンクリ−トの床に置き捨ててあった先住者のマットレスを敷き、同じく置き捨ての一人用の蚊帳を吊って寝た。洗濯はシャワ−室に行って、身体と一緒に日本の花王石鹸で洗った。田中一邦はプッタパルティに電話して、長男・一光がそこにいることを確かめた。
「ですが、あそこは21歳にならないうちは、未成年として扱い、保護者と一緒でないと泊めてくれないという話でした。」
「そうね。でも、アシュラムの外には安い旅館があると聞いているよ」と私は答えた。 一邦は、私の紹介で、来印前に九州小倉でスナックを経営している長谷川恵真さんに会った。去年、6ヵ月もプッタパルティ(アシュラムの名はプラシャンティ・ニラヤム)でお嬢さんと修行した人だったから、その体験を伺ったら参考になるだろうと、勧めたのだった。お嬢さんはインタビュ−も出来、明るい健康な娘に変わって帰国した。田中一邦は長谷川恵真氏から、コ−ヴェリ河畔の孤児院のヴィラパン院長からアムルト(甘露)を頂いてきてくれぬかと依頼された。それを彼が思い出して、プッタパルティに移る前に、マイソ−ルの近くのその孤児院に行きたいと言い出した。チョッと渋った菅原三郎も、一緒に行動するのが最善と決心して同行することになった。
一度バンガロ−ルに戻って、そこから138KMの距離があるマイソ−ルまでタクシ−を飛ばした。これもサイババのお手回しであったが、素晴らしい運転手に恵まれた。アショカンというその38歳のガッチリした体躯の印度人は、ヴィラパン院長をよく知っていて、われわれ4人は無事に甘露を頂くことができた。(詳しくは、「大聖シルディ・サイ・ババ小伝」のほうに書いた。)
マイソ−ルから田中一邦は一人旅でプッタパルティに着いた。ほかの三人も同じころ着いて、私とヨモギタ君は門前町でサイババのお車を出迎えた。今度は、ババは私にはっきり顔を向けてくれた。
一邦はお出迎えは出来なかったものの、すでにシェッド(コンクリ−ト床の簡易宿泊所)にチェックインしていた。まだ、一光の姿が見つからないという。シェッドには泊まれないから、きっと外だろうと私が言って門前町のインド人用旅館に当たってみた。いなかった。
その後、田中一邦は千葉の自宅の夫人経由で、一光のありかを突き止めた。父と入れ違いにホワイトフィ−ルドに移り、二日続けてサイババのダルシャンを受け、「サイババは俺に合わない」と言って、どこかに行ってしまったという。ババジとかいう霊人を求めてヒマラヤに行ったらしいとも聞いた。父親は心配していた。
「金は10万しかやっていないし、無銭旅行になれば警察につかまるかもしれない。医者からもらった抗癌剤も切れるし、行き倒れて病院にでも担ぎ込まれれば、いずれは日本の私に連絡があり、もう一度、私が身柄受け取りにインドに来なくてはならなくなるかも...。」
47歳の父親は暗然とはしていなかった。平静で何かを諦めていた。それから、何日間か朝は4時起きで、ダルシャンとバジャンに精勤している様子だった。そして、とにかく日本に帰ると、私たちと袂を分かって、バンガロ−ル経由でボンベイに去った。
それからやっと、今朝(3月22日)、田中一邦から喜びの墨書の手紙が届いた。一光が帰って来たのだ。ビ−トルズも愛したシタ−ルを自分用に買い、家族に沢山のお土産を携えて。北海道の老父母(一光にとっては祖父母)も交えて11人の家族団欒だったという。医者は首をかしげたそうだ。血小板の値もいい。本人はホワイトフィ−ルドでサイババと二回「にらめっこ」をしたという。早く番を取り、最前列に座ったという。英語はできないから、目で「サイババよ、なんであんたは俺をここまで呼んだのか!」と訊いたという。二日ダルシャンを受けてから、「何か別のもの」が彼に囁いて、アシュラムを離れることにしたという。その後、一月近くインドを放浪したようだ。
千葉の家族パ−ティ−のあと、また一光は国内の旅に出たと、父・一邦は伝えている。「しかし、寛解と思っています」と書いてあった。全快とは言えないようだ。しかし、抗癌剤の投与も無視して、青年はまたいずこともなく旅の空。
私は思う。サイババは引き受けたのである。「にらめっこ」は私の場合の「「大凝視」に似ている。サイババは一光の身体を護りながら、日本の各地でいろいろの奇跡を現わすだろう。楽しみである。


22.兄への手紙

サイババ再生の噂が飛んで、シルディにお参りに通っていた多数の信者、またシルディの大聖と接触する望みを失っていた帰依者たちが、続々とプッタパルティに駆けつけた。古い帰依者たちは若いサッチャを伴っていろいろの場所に行った。ハイデラバ−ド、バンガロ−ル、マドラス、カル−ル、その他に。ラジャ(王侯)、ザミンダ−ル(インド独立前に、英国政府へ地租を納める条件で認められた封建領主)、小作人、会社員、医者、弁護士など、社会の各層の人間が群れをなして、老女スッバンマの家に集まった。しばらくして、老女と他の人々が小さいマンディ−ル(神殿)をサイババに奉献した。
サイババは20歳になった。(太平洋戦争終結の1945年8月15日には、サイは18歳、リンは19歳だから、戦後である。)テルグ語の教師をしていたサイの兄のセシャマラジュは、この「現象」の神秘がまだよく判らなかった。川の右岸に列を作ってやってくる自動車を仰天して見ていたその兄には純粋の兄弟愛が溢れていたが、何であの「村育ちの唯の弟」を、誘惑と落とし穴でいっぱいのキラキラした都会に次々と連れ出すのか訳がわからなかった。無知なるが故に書き立てるのであろうが、新聞のコメントの悪口はこの兄の心を痛めた。思い余って、彼は大切な弟に手紙を書いた。それは、彼自身が身をもって知った社会と人間の弱点、名声とそれに伴う陥穽について、真心からの警告と説諭を記したものだった。
1947年(昭和22年)5月25日付けでサイババが兄に送った返事は、カストゥリ博士の手に保存されていた。その長い手紙は貴重な文献であるから、私もそのまま日本語に移してみよう。
「愛するかたに! あなたのお手紙を受け取りました。そのなかには、あなたの神への帰依心と愛情が洪水のように高まっておりましたが、その底流には疑惑と憂慮も隠されていました。知者、ヨギ、苦行者、聖者、賢者などの心の奥を探り、その本性をあばくことは不可能であると、申し上げねばなりません。人々には神さまより各種の性格・特性・精神的態度が与えられています。ですから、誰でもめいめいの角度から物事を判断し、自分の性質に照らして語り論じます。しかし、私たちは自分自身の正しい道、知恵、決心を守って、世間の評価に動かされることがあってはなりません。諺にありますように、通行人
神人サチャ・サイ・ババの横顔