から雨あられと礫(つぶて)を投げられても、黙って受けるだけの果実一杯の木のようなものです。善人が存在すると、必ず悪人が刺激を受けて中傷に走るものです。また逆に、悪人は善人を挑発して、善人から嘲罵の言葉を吐き出させます。これがこの世の性質です。もし、そのようなことが起こらないとしたら、そちらのほうが驚くべきことです。
「人々には哀れみをかけるべきで、それを責めてはなりません。かれらは知らないからです。世人は正しい判断を下すために忍耐することができないのです。世の人の心には、欲望、憤怒、自惚れの心が一杯に詰まっていますから、物事を明らかに見て、充分に知ることができません。ですから、皆があらゆることを書き立てるのです。もし分かっていれば、あのような話し方や書き方をしないことでしょう。私たちとしては、どんな批判が出てきても、それに何らかの価値を付するべきではありません。また、あなたがなさっているようにも見えますが、そういう意見を心に納めることもするべきではありません。真実はいつか必ず勝利するものです。非真実は決して勝ち残ることはできません。非真実は[真理]より力が強いように見えることもありますが、その一時の勝利はやがて影が薄くなり、[真実]がおのずから確立されます。
「偉大なる者は人々の崇拝を受けたからといって膨れ上がるものではなく、また、人々から嘲笑されても萎縮することはありません。事実、どの聖典をひもといても、偉大なる者の生き方・行動を規制するような戒めは記録されておりません。偉大な人が採用するべき習慣と態度はこれこれであるというような定めもありません。そういう人たちは、自分で進むべき道を知っています。彼らの英知がすべてを秩序づけ、彼の行動を神聖なものにします。自信と慈悲深い行動−−この二つが彼らの独特のしるしです。
「偉大な人はその帰依者・信奉者の幸福を増し、彼らの行動の結果をそれぞれに割り当てる仕事をすることができます。私がこの二つの"しるし"を守っている以上、どうして兄さんが、もつれた世間の悩みごとに捉えられる必要があるでしょうか? 結局、世人の称賛と非難はア−トマ(本質、真実)に触れることはありません。触れることができるとしても、それは外側の肉体的・物質的な枠にだけです。
「私には一つの"つとめ"があります。それは、すべての人類を育て、すべての人のためにアナンダ(梵語で歓喜の意味−−訳注)に満ちた人生を保証することです。私には一つの"誓い"があります。それは、真っ直ぐな道から逸脱した総べての人をもう一度善に引き戻し、救うことです。私は一つの"仕事"に釘付けです。それは、貧乏な人々の苦しみを取り去り、彼らに欠乏しているものを与えることです。私には一つの"誇るべき理由"があります。それは、私を崇め熱愛する人々を総べて正しく救うことです。私が期待する"献身・帰依"(DEVOTION)を私は次のように定義しています。私に帰依する人々は、喜びと悲しみ、得と損を、いつも変わらぬ毅然とした精神で扱わねばなりません。この意味は、私に頼みすがっている人々を、私は決して見捨てないということです。私がこのように慈悲と恩恵の"任務"を果たしているときに、あなたが懸念するように、私の[名]が汚されるということがどうしてありうるでしょうか? そのような可笑しい話に耳を傾けないようにお願いします。マハトマ(偉大な魂の持ち主−−訳注)たちは、誰かがマハトマと呼ぶから偉大になるわけではありません。誰かが小さいと評しても、小さくなるわけでもありません。阿片やガンジャ(精製した強力マリフアナ−−訳注)にうつつを抜かしながら抜群のヨギだと自称する低い段階の人々、自分の食い道楽と自惚れを正当化するために聖典の章句を引用する人々、規範に照らして行為の道徳的正邪を判定するのが巧みであったり、議論の達人であっても、内実は土埃のように乾き切った学者たち−−そういう人だけが賞賛や非難によって動かされるのです。
「兄さん、あなたは聖者や神人の伝記をお読みになったはずです。そういう書物のなかで、そのような人々に投げつけられた更にひどい偽りの言葉や、もっと忌まわしい汚名についてお読みになったに違いありません。これはあらゆる場所、すべての時代におけるマハトマたちの運命です。そうであれば、どうしてあなたは、周囲に起こる悪罵をそれほどお気に掛けるのですか? あなたは、星を見上げて吠える犬たちのことを聞いたことはありませんか? そのようなことは長続きしないものです。正しい道を歩む者はまもなく勝利を収めるでしょう。
「私はこの使命も自分の決心も断念することはありません。それをやり遂げることを私は知っています。結果として名誉が来ようと、恥辱が来ようと、名声だろうと非難だろうと、それを変わらぬ平然とした心で処理します。内側で、私は何も気に掛けておりません。私が行動するのは外側の世界においてのみです。私が話をし動き回るのは、外側の世界のためですし、私が人々のところに来たことを知らせるためです。内面的には、こういうことも全然気にしておりません。
「私はどこの場所にも属しておりません。私はどんな名前にも固定していません。私には"我のもの"や"汝のもの"がありません。私はあなたがたが用いるどんな名前にも答えます。私は連れてゆかれるどんな場所にも行きます。これが私の[第一の誓い]です。私はこのことをまだ誰にも明かしておりません。私にとって、世界は何か遠くの離れたものであります。私はひたすら人類のためにだけ、はたらき動くのです。どんな人が、どんな探求の方法を用いても、どのくらい長く試みても、何人も[私の栄光]を理解することができません。
「これからの年月において、あなたはご自分で完全な[栄光]をご覧になることができます。帰依者たちは忍耐心を持たねばなりません。
「これらの事実が世に知られることについては、私は何の関心もなく、それを心配もしていません。私にはこのような言葉を書く必要もないのです。私がここにこのような言葉を書いたのは、私が返事をしないとあなたが苦しむだろうと感じたためであります。それでは、あなたのババより。」


23.停頓
                  於天神930323/1413
この章の番号と今日の日付と一致している。あす3月24日に、私はこの書物を完結する予定にしてきた。それが今朝からまた、私は「舵を失った」状態にある。参考書の頁をパラパラめくってみるが、それに乗ることもできない。私は外側の助けを諦めて、内部のサイババと対面することにした。
この本の前の「大聖シルディ・サイ・ババ小伝」から、私は筆名を神 一 としてきた。神は「一つ」であり、そこからの「はじめ」である。私は「道具」であり、この道具を使って神が何かを書き賜うことを期待し、祈ってきた。神が動かないかぎり、私も動くことはできない。しかし、私は一歩でも神の方向に動き出さないといけない。「親」を慕う赤子のように、たとえ這いながらでも「親」に近づこう。その動きで、「親」は10歩でも100歩でもこちらに近づいてくださる。「はじめ」の一歩が大切である。「親」の気配のするほうににじり寄ろう。
神はすべての「名」と「形」のなかに存在すると、サイババは教える。私もこの著述のなかに多くの人々の「名」を挙げた。そして、そのつど、私の狭い視角と立場から何らかの批判を付したはずである。その時はそうするしか仕方がなかったとは言えるが、その総べての「名」のなかには神がいた。私はその「全在の神」を批判したり、見下したり、非難したりしなかったか。
サイババは幽霊ではないから、誰か特定の人に憑依したり、誰かを霊媒に用いることはないと明言しておられる。どこまでも、われわれ一人一人との直接関係において働かれるという。この本を機縁として、読者のあなたはサイババと、私には分からない直接関係を持たれるかもしれない。「どんな名を呼んでも、そこに私はいる」と言われるサイババに対して、あなたがどういう呼びかけをするか分からない。私はサイラムと呼び、ソ−ハムと呼吸し、
神人サッチャ・サイ・ババの横顔