OMと唱える。名前一つで神と融合する道を「ナ−マ・ヨガ」と言う。多くの種類のヨガや瞑想や修行法があるが、このカリ・ユガの時代には、反復唱名が最も簡単で最も近道であると言われる。
南無阿弥陀仏でもイエス・キリストでもアラ−でもいい。だが、自分が奉ずる「名」こそ一番勝れていると主張することは、他の「名」を大切にしている人々とのあいだに柵や壁を作ってしまうことになるだろう。
宗教対立で殺し合いをしている人たちを見るのは悲しい。しかし、私たちは少なくともそういう人々の仲間に入らないことはできる。私たちは無力で、この混沌とした人類社会を一変させることはできないが、自分自身を変えることはできる。自分を神のなかに投げ入れて、神さまにすべてをお任せすることはできる。地球人類の運命は神の御手のなかにあるのだから。
日本沈没が囁かれている。オ−ストラリアのパ−ス市にいるサイ帰依者によれば、シナ、インド、インドネシア、ニュ−ジ−ランド、オ−ストラリアは安全だと、かつてサイババが言われたそうである。日本は入っていない。また、壊滅が噂されているアメリカの西海岸やニュ−ヨ−クを中心とする東海岸にも、沢山の帰依者たちが居住しているが、いざとなればサイババからのご指示があるだろうと、心安らかに皆は暮らしているようである。私には分からない。
2年前、愉美子がプッタパルティに行ったときも、その質問が心に掛かっていたはずなのだが、ダルシャンの場ではすっかりそのことを忘れてしまったという。今年の私の場合もそうだった。ただ、何がなしに、日本人がインドに渡ってダルシャンを受けるのは、1994年が一応の最後だという示しは受けている。詳しいことは全く分からない。来年はどうあっても、私はもう一度インドに渡るであろう。いや、それを切に願っている。
今しがた、愉美子が隣町から明るい顔で帰ってきた。「銀行に何も入金なかったわ」と笑っている。子供たちの貯金に手をつけて食料を買ってきた模様である。日本沈没どころか、わが家の沈没を憂えたほうがよさそうだが、完全にお手上げで、すべてをサイババに任せている二人だから、心配しようがない。この平静さは今までに例しがない。過去の乞食托鉢時代にも、食うや食わずの道場時代にも、「名もなき神」への信頼はいつもあったし、苦労はあったが常に「不思議な手」の導きで窮境を脱してきた。今と昔と違うのは、「名もなき神」から「名のある神」に変化したことである。きっと、生まれてからずっと名前を知らなかったから「名もなき神」で満足していたのであろう。そこへサイババという「名」を与えられた。
私の家にあるサイババの写真からはビブチ(聖灰)もアムルト(甘露)も溢れ出していない。信仰が足りないせいなのか、不要なのか、私には分からない。しかし、私の性質として、もしそのような「現象」があると、私は得意になってそれを宣伝し、自分のエゴを膨らませるだけであろう。その危険はサイババがよくご存じである。
私はいまだに「舵」を失っている。というより、私の船のエンジンは充分に始動していないように感じる。ゴトゴト走り出しては、また止まっている。


24.ババへの手紙
                      於天神930323/2005
サ イ バ バ さ ま ! 
今日は一日中調子が悪く、昼間は何度も眠っていました。いつのまにか夜になっていますが、たまりかねてこの手紙を書きます。あなたは世界中どこにでもおられて、誰かが呼べばすぐ答えてくれるおかただと承知して、それを信じております。私はバジャンも歌えず、せいぜいお名前を呼ぶだけですが、このか細い声でも、どうか聞き届けてください。 私は怒りっぽい性格で、インドにいたあいだ、友達の菅原三郎君に何かというと怒ってばかりいました。彼のほうも呆れて、宮城県に帰ってからは私に手紙を一つもくれません。それも撒いた種子と思って諦めています。
日本に帰ってから、もう27日経ちましたが、昨日まで不思議に元気が持続し、二人のサイババについて2冊の本を書き、これが2冊目です。ところが、今朝から脳内配線の故障のようにインスピレ−ションが止まってしまいました。脳の使いすぎで、配線がどこか焼け切れたのかもしれません。それとともに、説明のつかない奥からの喜びの溢れが止まってしまったようです。
コ−ヴェリ川のほとりのあの孤児院で頂いたアムルトも残り僅かですが、いま一口舐めました。その甘さが口中に広がっています。あのころは幸せでした。毎日が夢のように過ぎておりました。1週間も経っているのかとカレンダ−を見ると、二日しか経っていなかったりして、時間の密度が普通と異なっていました。プッタパルティで或る日ウツに襲われそうになり、急いでバジャンの場に出かけたら、ウツが瞬間に消えたのも思い出します。 ウツには大学生の頃から長く悩まされてきました。今回、あなたの傍に行って根本からウツを取り除いてもらいたいと願っておりました。それが今は、すこしですが、またウツの雲が掛かり出したようで不安です。
私のウツはお金がないとか、病気だとか、そういう外部的条件から生まれるものではないことは、前からよく分かっています。きっとカルマ的なものと考えています。ですから、カルマの根を抜き去っていただければ、その根から生える雑草のようなものは時間とともに枯れ果てるものと思います。あなたから2月18日朝8時に頂いた「大凝視」は、私のカルマの底に届いたような感じを持ちましたが、あれは勘違いだったのでしょうか?
私はこの先、あなたのことをずっと書き続けたいと思っておりました。昨日までは、あまりに内容が莫大なので、余生を全部使っても時間が足りないという実感を持っておりました。ところが今日になって、あなたの「支え」と「気の注入」がないかぎり、私にはあなたのことを何一つ書けないということが、よく分かって参りました。
私には7人の母子を扶養するという義務があります。しかし、今のところ、そのための仕事が充分にありません。これからの見通しもついていません。ですから、あなたの無限力に甘えるみたいで心苦しいのですが、へりくだってお願いするしかありません。あなたは、私がこの手紙を書いている今、もうこれをお読みになっています。そして、もうお応えをくださっており、解決法も準備しておられるのだと思いますが、感覚が鈍くそれをキャッチできません。ビブチもアムルトも、この家にあるあなたのお写真からは噴き出していません。外側の奇跡を求めず、内側にあなたを見よということかもしれません。 また、あなたの恩寵を期待できるほど、私の内部が清められていないとも感じています。貧乏も富も、病気も健康も、失敗も成功も、すべて同じ平静さで受け取りなさいと、あなたは教えておられます。そして、忍耐が必要だともお示しになっています。
私は何よりも、幸福の形よりも、「神における愛と喜び」だけが欲しいと思っています。なぜなら、その愛と喜びは、私を取り巻く世界と環境を輝かせるからです。「魔法の眼鏡」を掛ければ、世界が全く別の光景に見えます。そのような体験はありますが、それは外から掛ける眼鏡ではなく、本当は内部にもともと備わっている「ア−トマの裸眼」だと気づいています。心の眼の曇りをきれいにすれば、その「魂の眼」も透き通ってくるのでしょう。
神人サチャ・サイ・ババの横顔