はなく、人々の陰にかくれているような人間でも、神さまはちゃんと見ておいでだ。だが、「お母ちゃん、お菓子、お菓子、僕が先、僕が先」と呼ばわる子供も、母親にはやはり可愛いわが子であろう。
サイババが手紙を受け取ったり、話をしたり、プラサドを与えるために、自分の前に来ると、たいていは夢中になって、そのあたりは総立ちになる。お付きの者たちはそれを制し、サイババ自身も優しく手で興奮を静める。そういう子供たちのなかで、私は少々ませた子供だったのであろう。可愛げがないのかもしれない。あの「大凝視」で、私はサイババのなかにいたし、サイババは私のなかにいた。とにかく満足し、その日の晩から、身体の緊張が緩んだのか、私は軽い下痢を始めた。そのあとは適当にバジャン/ダルシャンに出て、そろそろ土産品などを買っていた。


26.あとは流れるだけ

執筆は明日いちにちだけとなった。自然に結末が来るだろう。私は肩の力を抜いた。始まるように始まったものだから、終わるように終わるだろう。何を書こうとも思わないし、何を書くまいとも思わない。いっさい何も思わない。サイババの力と知恵を無理に下さいとも言わない。与えられているものに満足しよう。
少しは寂しげな心境である。私が四つ五つのころ、公園に連れてゆかれても、砂場などでほかの子供たちと混じって遊ぶでもなく、いつも少し離れたところから静かに見ていたと、私の母はいう。うっすらとその記憶はあるが、特に傍観しているという意識もなかったから、公園の風景の一点としてポツンと立っていた坊やの姿があっただけだろう。外から見れば、少しは寂しげな男の子だったかもしれないが、本人は結構楽しくまじまじと同年輩のわらべたちが嬉戯するさまを見ていただけだ。そういう私の本質はまだ変わっていない。
桜は一生桜、柳も一生柳で、人間も本性は殆どか全くか、変わらないものではないのだろうか。孤独は人間の本来形で、痛苦も悲愁も、病気も貧乏も、結局黙って耐えて来ただけではないのか。どこから来てどこに去るのか、その途中でやはり孤独の人を見れば、共感といたわりの目を向け、優しくひと言ふた言を交わす。それが一番自然ではあるまいか。長ずれば次第に世間の気癖を習い覚えて、いろいろの欲望を出す。しかし、それも仮現のもので実体がなく、過ぎてみれば何もかも夢である。欲望もまた元どおり、自分の魂から浮き離れて、生まれたままの童心に帰る。神さまはやはり居られるのだという発見が、一巡りしたあとの唯一の収穫。
サイババはかつて、「人間は60代に入ったら、もう神と結婚するだけ」と言われた。もちろん、人間側は、もし男であっても、自分は神の「花嫁」である。サイババが云ったように、この世の唯一のオトコは神だけであり、人間は男女ともにオンナだというのは本当だろう。色気も何もない寂しい話であるが、「色は匂へど散りするを」だから、仕方がない。もう一度生まれ変わって花を咲かせますか。何度やっても同じ気がするし、何よりもややしんどい。雨がしとど降っている。トタン屋根だから、雨の音が身に染みとおる。山の桜のつぼみはふくらみ、裏の畑のニラは喜んで細長い葉を出し始めるだろう。真夜中が近い。寝るか。


27.芹澤光治良死去
                        於天神930324/0817
昨夜、清川村のチャイムが鳴ったころ、1993年3月23日午後9時に、東京の芹澤光治良先生が亡くなったと、今朝の新聞で知った。1988年の暮れ、私は東中野の先生のお宅を訪れた。後にも先にも一回きりである。近所の果物屋で道を訊き、「先生は何がお好きですか?」と尋ねたら、マスクメロンという答えだったので、それを一つ持って伺った。片耳が不自由のご様子だったが、1時間ほどお話を下さり、そのあとで、「時に君は何をやっているの?」「翻訳をやっています」の問答があって、私はお疲れを心配して辞去した。メロンにわざわざ有り難うを言われ、音楽家のお嬢さんとお見送りであった。
芹澤先生は文壇最長老で、享年96歳と新聞にある。その父上が沼津の網元の家を捨てて、天理教のために全ての財産を捧げたので、先生は沼津中学のときは弁当も持てぬ貧窮で、昼食の時間は校庭で水道の水を飲んで過ごしたと、その作品にある。一生、父を恨み天理教を嫌ったが、不思議な縁で「ペ−ル」(フランス語で父の意味)と先生が呼んだ庇護者に巡り会い、一高から東大の経済学部を出られた。フランス留学の際、結核で死の寸前まで行ったが立ち直り、作家になった。
「神の微笑」から、いわゆる「神さまシリ−ズ」を新潮社から7冊発表されたが、私はそのすべてを読んだ。「かみのほほえみ」を書き出されたころは90歳近かったが、その前に非常に衰弱し死を覚悟していたが、天理教祖・中山みきが「伊藤青年」を「やしろ」として接近し、健康体に戻された。その後、毎年一冊の速度で着実に神の世界について執筆された。中山みきについては、昭和34年に角川書店から「教祖様」という483頁の伝記を出版されている。その功労を「親様」(みきの信者間の呼び名)が感謝され、先生の健康を回復されたのである。
伊藤青年はのちに大徳寺昭輝と名乗り、今は湯河原で道場を開いているが、ミキの申し入れでは、芹澤光治良先生に青年の後見役・教導役をしてくれとのことだった。大徳寺昭輝さんは今年の11月には30歳になり、宗教家であるとともに書画・音楽の才能を発揮して活躍中である。私は3回会っている。いつも私からは自己紹介をしていないのに、私が行くたびに、大徳寺さんを通じて語り出す「親様」は、「あんたに時々筆を持たすでな。形ではないで心でお書き」と私に著述の心得をいろいろ話してくださるのが常であった。 「人間の運命」全14巻で昭和43年に芸術院賞を受けたが、最晩年の神さまシリ−ズは文学の常識を破ったものであったから、新潮社がよくあのシリ−ズを出したものと、私は密かに驚いていた。「親様」に乗り移った「親神」・天理王命だけでなく、キリストや釈迦も芹澤先生の周辺に登場し、先生はTVの画像を通じてゴルバチョフと霊交をされる。物質主義の日本人も先生の著作には目を見張ったことであろう。私が訪問したときも、「ル−ルドの水」を先生みずから一升瓶の水道水と日光と祈りでお作りになるという不思議な話を聞いた。つい先だっても、癌の末期の患者にその水を与えたら治ったという途方もない話もされた。
私は大徳寺昭輝さんがサイババを訪れるように前から勧めている。そういう運びにいつかはなるだろう。サイババも96歳(ただし数え年)でこの世を去ると予言している。芹澤先生は老衰死と発表されたが、サイババは健康体のままであろう。もう一人「健康体のまま98歳で死去した男」にランド−ン博士がいる。彼のことは昭和30年代に私が調べて、論文に発表したことがあり、その後2冊の別の書物に転載されたから、読んだ人もいることだろう。
昨夜、10日以上の私の秘結が通じた。脱肛は軽快している。
神人サチャ・サイ・ババの横顔