28.シヴァの夜祭り

本書執筆最終日である。3月18日から一日も休まず、延々と書き続けた。7日目の今日となっている。結末がどうなるのか分からないが、本も生き物、人間の終焉のようにいつかは自然に息を引き取るのであろう。雨は小止みになって、鶯が元気に鳴いている。
今年のシヴァラトリ(シヴァの大祭)は2月19日だった。「大凝視」のあった18日の夜から、信者は一睡もしないで、樟脳の火を焚きバジャンを歌い続ける。門前町でも一晩中バジャンをスピ−カ−で鳴らしている店があった。私はアシュラム外のゲストハウス(印度人用ホテル)で眠ったが、前夜祭が終わっての19日は暗いうちに起き、アシュラム内に入って行った。シェッドは満員、溢れた群衆は境内の木の下、その他いたるところに眠っていた。暁闇のなかで、木の枝に白い花が咲いたようになっている。いぶかしんで、そばに寄ると、それは家族連れで遠方から来た信者たちの洗濯物だった。広大なインド亜大陸のすみずみから何日かけてやってきたものか、食器や炊飯のアルコ−ルランプまで用意していた家族もいた。貧しいなかを一家でやってきたのだから、外に旅館があってもそれに泊まるような余裕はない。人数は見当もつかない。一万人内外はいただろうか。私の日記には「大群衆で辟易してホテルに戻る」と書いてある。
オ−ストラリアのハワ−ド・マ−フェットには「奇跡の人・サイババ」(SAI BABA−−Man of Miracles)という著書があるが、それにはマ−フェットが初めてこのシヴァ大祭に参加したときの体験が記されている。1966年(昭和41年)2月18日のことである。私もサイババも満39歳のころだ。
群衆は中央のマンディ−ルの前で、サイババの朝の祝福を待ち兼ねていた。ババはバルコニ−に現われ、腕を上げて皆を祝福したが、すぐに引きこもった。マ−フェットは「お体の具合が悪いのではと思った」と書いている。そこへシタラミア博士がサイババの居室から出てきて、マ−フェットにババの体温が104度だと告げた。摂氏なら40度の高熱である。
今は止めているが、そのころは毎年、サイババは口からシヴァのリンガム(一般には男根像とされる)を吐き出していた。それで、医者は「発熱は彼の身体のなかで今作られつつあるシヴァ・リンガムに何か関係があるのではないでしょうか」と言った。
しかし、ババは何事もないように振る舞い、その日は彼を待って座っている人々に聖灰の小袋を配ったりしていた。その日には公衆の面前で二つの奇跡があったが、その第一のものは午前中に起こったとマ−フェットは記録している。彼の日記の文章をそのまま日本語に引き移そう。(この書物は津山千鶴子さんの訳が出ているので、詳しくは比良龍虎さんにお尋ねあれ。電話03−3447−0408。)
「ステ−ジにはシルディのサイババの大きな銀の彫像が置かれてあり、その像のシルディ・サイは例の右脚を左の膝に乗せるポ−ズを取っていた。カストゥリ氏は高さ30センチくらいの木の壺を取り上げた。それにはビブチが一杯に入っていた。これを銀の彫像の頭上にかかげ、その灰を壺が空になるまで像の上にそそぎ出す。最後の一粒まで出たということを確かめるために、彼は壺をよく振った。そしてその壺の口を下に向けたまま、彫像の上に差し上げたままでいた。
「今度は、サイババが片腕を肘までふかぶかと容器に差し入れ、昔の女たちがバタ−を作るときにやったのと同じ仕草で、壺のなかをかき交ぜる。すぐに、灰は再び壺から流れ出し、彼が腕を抜くまで多量の灰が流れ続ける。」
このシ−ンは、サイババの周辺を描いたビデオテ−プでも、見ることができる。上記の龍虎さんに連絡すれば入手できるかもしれない。
サイババは片腕ずつ交互に壺に差し入れてビブチを洪水のように出し、ついにはシルディ・サイの彫像が灰の山に埋もれてしまった。
その日の最大の奇跡はリンガムの出現だった、とマ−フェットは書いている。毎年、1個以上のシバ・リンガムがサイババの体内に物質化されて、口から取り出されるのだった。その材質は水晶のように透き通っていたり、色つきの石だったりしたが、時には金や銀の金属のこともあった。帰依者の一人がマ−フェットに次のように説明した。「彼はリンガムが現われる前に、長いあいだ歌ったり話したりなさるのです。しかし、それが口一杯に出てくるときには、話はできなくなります。去年などは、リンガムが大きすぎて、ババは指を使って唇から掻き出すほどでした。そのため唇が切れて、口にすこし出血がありました。」もう一人の帰依者は次のように付け加えた。「ある年は、9個も出てきました。それぞれの高さが大体1インチ半(4〜5センチ)でした。一時間近くも話を続けながら、それをみな口のなかに入れているということが想像できますか!」マ−フェットはそれは確かに奇跡かもしれないが、いったいどんな意味がそれにあるのかと怪訝に思う。シヴァ・リンガムの意義も分からなかった。あとで、マ−フェットはその意味をある神智学の人から聞いたとして、次の解釈を加えている。リンガムは楕円体で、シヴァ神とその配偶神シャクティを象徴している。つまり、陰と陽の二元性を表している。他方、絶対神ブラ−マンは二元性を超えた「一」なるものだから、それを数学的に表現すれば完全な球体になるであろう。その球の中心の一点を分割して二つの点とすれば、それを2中心として楕円体ができる。宇宙内の万物は二元性であるから、その根本はリンガムである。宇宙の原音がOMであるのと同じだ。大体、このような説明である。
原子構造を見ても、原子核のまわりを電子が楕円軌道を描いて回転していることなど、物理学的にヒンドゥ−教の象徴を説明しているが、興味ある読者は日本訳でマ−フェットの本を読んでいただこう。
その1966年には3万人の信者が集まったと、マ−フェットは書いている。夜の8時半になって照明がつき、サイババが登壇する。星の光に照らされた3万の群衆がかたずを飲むうちに、ババのお話とバジャンが始まる。30分ほど経過してから、ババは話も歌もできなくなり、水を飲みながら胸を押さえ、身体をねじって苦悶する。それは産婦の生みの苦しみのようだ。偉大なものの出産である。サイババを励ますようにバジャンの歌声は高まり、マ−フェットの傍の男たちは手放しで泣き出す。私はその場に立ち合ったことはないが、今想像するだけで涙がこぼれる。私もそこにいたら、その印度人たちのように泣いただろうと思われる。白人のマ−フェットはただ呆気に取られて見ていた。20分の苦悶ののち、緑の光がババの口から輝いた。リンガムの誕生である。


29.私の道

だれにもそれぞれの道がある。天理教祖・中山みき(1798〜1887)も初めは奈良盆地の名もない村の農家の主婦だった。慈悲心の深い良妻賢母だった。そのまま行っても立派な道であったろう。しかし、天保9年(1838年)、彼女が40歳のときに神がかりがあって、みきは大変身を余儀なくされる。一時は池に身を投げて自殺しようと考えたほど、神の「やしろ」に成りきるには大変な苦悩を通過せねばならなかった。中山みきが警察の拷問で健康を害し、90歳近くで亡くなったとき、シルディ・サイ・ババは推定54歳の働き盛りであった。シルディもサッチャも、シヴァ神の化身であり、ラ−マやクリシュナのような大アヴァタルの再来とされるが、「神が乗り移る」と言ったようなクライシス的な変化はなかった。「神がかり」は極めて日本的である。大徳寺昭輝も前世でその祖母であったみきの「神がかり」を適時受けている。大本開祖・出口ナオの「お筆先」も、神がかり現象であろう。古くは、卑弥呼は女王であり、同時に霊媒であった。天照大神も同じである。ヒンドゥ−教の歴史には霊媒というものは出てこない。不思議である。
神人サッチャ・サイ・ババの横顔