「筧」という字をある日テレビのスクリ−ンに見た。久しぶりの字だったので、何となくメモしておいた紙をさっき見つけた。この字を題にしてこの章を書こうと思った。書き出した(行動)。次々と話が出来て行った。思考はよどみなくついて来たのである。「気のかけひ」という新しい私の言葉が出来た。「気の筧」は、実はどんな人からも四通八達に全宇宙に行き渡っている。それに気がつく状態をオ−プンという。心がオ−プンだと、「気の筧」が見えてくる、直感される。心が閉じていると(ウツ)、自分だけが孤立していて、万事が無関係に感じられる。したがって、行動の意欲も湧かない。
私の学友で、「ぼくは人生の大半をウツで過ごしたよ」と告白した人がいる。気の毒なことである。「その点、きみはいいよ。ソウで埋合せしているから」と言っていた。それはそうかもしれない。長雨の人生、日照り続きの人生、晴雨程よく交替する人生、曇つづきの人生など、実にさまざまの組合せがある。私の場合は、雲ひとつない日本晴れや、豪雨・台風を特徴とする人生である。極端なコントラストだ。しかし、そのお陰で、極端も中くらいも、人間のことはよく分かる。AとZのあいだに24文字がみな入っている。「気の筧」を懸けやすい。ウツの体験があるから、落ち込み中の人の心情もよく理解できる。無神経な人がよく放言するように、「おい、元気を出せよ!」などと通り一遍のことは言えない。しんみりその人の身になることができる。鬱病の人を下手に励ましたために、その患者を自殺に追いこんでしまったという例は沢山ある。医者もそれを警告している。
「気の筧」は無理に力づくで架けるものではない。それを知らない比羅というサイババ信者の偉い人が、電話で私がウツを訴えたら、「サイラムと言え、サイラムと!」と強制したことがある。サイラムとは、サイババの神名であって、その名を唱えれば万病が治ると信じられている。私はその強制を嫌悪した。仕方なく電話口で神名を唱えたが、治ることはなかった。人の悪口を言うな、言えばそれは自分に帰ると、サイババは警告しているが、悪口を言ってはならぬという強制も私の精神的健康にはよくない。言うまい、言うまいと内部に圧力をかけると、それが溜まっていつ爆発するか分からなくなる。相手が聖者でも神人でも、無理やりにその教えを実行することはよくないと思う。「汝の敵を愛せよ」のキリストの言葉だって、機械的に強制的にそれを実行できるものではない。憎らしい敵を見たら、無理を承知で武者ぶりついてキッスでもしてやろうか。その前に張り倒されるのが落ちだ。「スケベの目で女を見ることがあったら、その目をくり抜いて捨てよ」という激しい言葉もキリストから出ている。それを実行したら、目が一万個あっても足りない。 「汝の敵を愛せ」を命令と取らずに、「心がイエスさまと一つになると、自然に敵を愛せるようになるという意味なのですよ」と説明した牧師がいた。一応尤もである。しかし、「目をくり抜け」も、そういう具合で解説できるのかな。
聖者や神人の言葉には、その場にピタリのインパクトがある。それを固定したものとして持ち回ってもうまくいかない。「目をくりぬけ」も、イエスの前に、煮ても焼いても食えないスケベ男がいたための、イエスの厳しい叱責だったにちがいない。その男は恐れ入って、猛省したに相違ない。そういう場の状況で神の言葉は生きる。
だから、悪口だって、私は言いたいときに言う。陰口に限らず、面と向かってでも言う。喧嘩になるかな。喧嘩になりはしない。罵倒するにしても、私は真心をこめて言う。一方的な叱りであるから、たたきあい(早く発音すれば、たたかい)にはならない。人にたたかれるほどノロマでもない。叩かれるころには、その場にいないだろう。胸倉をつかみ合って、押したり引いたりの喧嘩は子供のときから殆どやったことがない。一発勝負だ。負ける喧嘩はしないことにしている。
HR(敬称はつけない)は、去年の高野山でのサイババ全国大会で、また例の癖が出て、私を舞台の上に引きずりあげて、サイババの大写真の前に土下座して「二度と酒を飲みません」と誓えと強制した。仕方がないからそうしたが、そのあとの反作用で、夜中の門前町に出てタラフク飲んでしまった。ああいう会には二度と出席するまい。
反感という形でも、「気の筧」はできる。きっとまたどこかで生まれ変わって、ヒリュウと対面することがあろう。そのうち仲良しになれる。


9.逆縁
                  在天神940115/1215
諸君と同様、喧嘩別れをした人の数は思い出せないほどだ。喧嘩するつもりはなくても、向こうが勝手に感情を害して離れる場合もあるから、不可抗力といってもいい。別れはどんな場合にも寂しいものだ。誰とも争わず平和に生きていた人でも、ガンジ−やジョン・レノンのように殺される場合がある。これは過去生からの逆縁の結実である。全く偶然に縁もゆかりもない人が君を殺すということはありえない。前世で傷つけたか殺した人が現れただけなのだ。だから、ガンジ−はとっさに合掌して銃弾に倒れた。立派なものである。ジョン・レノンはそこまで行かなかっただろう。
逆縁は処理しようがない。カルマの因果律は冷厳だからだ。結果が来たら、それを文句言わずに素直に受けるしかない。私の慢性貧乏だってそうだ。前世でどんなにお金を乱費・悪用したか分からない。あるいは、貧乏人を嘲った報いかもしれない。だから、私も今までに多くの人から貧乏を嘲笑されたことがあるが、怒る気はしなかった。ブ−メラン法則で、嘲りがわが身に戻ってきただけだなと思うからである。思い切り蔑(さげす)まれる目的で、元三に会う前も数年間、会ってからは16年間乞食をやった。軽蔑と同情をふんだんに貰った。今は乞食托鉢はやめているが、無心に無心することは続けている。「帰りの旅費がないのですが、何とかなりませんか」とか「切手がないので、恵んでください」の類いである。貰い慣れてしまったのかもしれない。恥じも外聞もないのだろう。『大言海』(大槻文彦著)には「無心」の定義として、「心なく憚りなく、人に物を与へよと請ふこと」と出ている。たしかに、それを私はやってきた。
乞食根性を人は軽蔑するが、私だって自力で金持ちになって、気前よく貧しい人に恵みたい気持ちをたっぷり持っている。それができないだけの話である。
「逆縁」という言葉の用い方を、私は間違えて来たかもしれない。辞書には、「悪事が仏道に入る縁になること」(講談社『日本語大辞典』)とある。私が前世で暴虐の覇王だったことは確かだが、それは明らかに逆縁として私を助けている。


10.プロレス
                     在天神940115/1239
力道山以来、折に触れてプロレスを見ていたが、サチャ・サイから、暴力や淫蕩や詐欺を映画やテレビで見るのは目の汚れ、目から悪い食物を取ることになるからやめよという説教を聞いてからは、見るのを控えていた。小説や演劇もいけないというのだった。小説家の息子に生まれ、大学も文学部を出た私には、全面否定的戒告である。賭博のパチンコ屋や、肉食幇助(ホウジョ)の肉屋と魚屋や、アルコ−ル提供の酒屋やスナックを経営している人は、サチャ・サイの帰依者になれば、即刻転業せねばならないみたいだ。屠殺場の従業員も、宝くじ売り子も、漁師も、みな転業せねばならない。寿司屋もレストランのシェフも駄目になる。そういう受け取り方をしたら、一刻もサチャ・サイの弟子などに留まっていられない。タバコ屋も廃業したほうがいいに決まっている。
そういうダルマ(道徳)面で、サイババは特に文明国人に大きなつまずきを与えているに違いないと、私は思ってきた。生活上の戒律の厳しいヒンドゥ−教は日本人には無理だろうと、私は結論した。そのために、サイババ・シリ−ズの第6冊目の『サイババ発見』を書き
ウツと失業