進めるのがだんだん困難になってきて、今は中断している。それでも、サチャ・サイという人間(ではないかもしれない)への魅力は失せず、もし「サイババが呼んでいるならば」今年の重陽の節句を記念して、その日に新関西空港から再度飛び立とうとしている。「呼んでいるならば」と書いたのは、サイが呼ばないかぎり誰も彼のそばに寄れないと、すべてのサイ信者が信じているからである。
去年の2月に帰日してから、私は悪いことを沢山した。酔っぱらって岩田不可止さんの首を絞めたこともある。同じく泥酔して、隣の三重町の不良高校生を殴ったこともある。別府の友の口にティッシュ−ペ−パ−を突っ込んだこともある。みな理由はあるが、やったことは紛れもない悪事である。サチャ・サイの写真の前で元ストリッパ−と淫行に耽ったこともあった。殺しの場面が入る「大岡越前」を毎週喜んで見ている。こういうことは真面目な帰依者はやらない。タバコも日に50本吸い、やめる気がない。万一、プッタパルティ(サチャのアシュラムのある所)に行っても、禁酒禁煙のアシュラムは暮らしにくいので、門前町のホテル(素泊り200ルピ−=1000円)に泊まって、そこからアシュラムに通勤しようと思っている。
サチャ・サイの「愛児」で、理博・医博の二つの学位をお持ちの青山圭秀さんは、『理性のゆらぎ』というサイババ紹介書を出版して、多くの読者を喜ばせた。今年も第二作の『アガスティアの葉』を同じ三五館から刊行の予定と聞いている。彼が優等生なら、私は落第生である。しかし、私はサチャ・サイを、日本人にとって近づきにくい存在にはしたくない。うちの愉美子も肉食をなかなかやめられない。(私は生来肉嫌いだったから、苦労はない。)それでも、熱心に信仰している。ダルマ問題はあまり彼女のつまづきになっていないようだ。
(文部省式に"つまずく"と書くのはいけない。爪突くが語源だからだ。)
その私が今日の午後は、久しぶりにIWGPの橋本vs蝶野のプロレスを見たいと思っている。もう、サチャ・サイの世間ダルマには従わないことにしたのだ。私はプロレスラ−の性質や技術を研究したいし、プロレス好きの友達と共通の話題が欲しいのだ。私が優等生のサイ帰依者になれば、次のように言うだろう。「きみ、プロレスの話はやめようよ。あれはきみの闘争心を駆り立てるばかりで、有害なんだぜ。きみの家のテレビで、子供たちにプロレスを見せるようなことは絶対するなよ!」こういう説教は、私を付き合いにくい道学者(道学先生とも言い、道徳のことばかりにやかましくて、世事に暗い学者を皮肉っていう語−−講談社『日本語大辞典』)に仕立ててしまう。
TMのマハリシ・マヘッシュ・ヨ−ギは、西洋の女たちが半裸で踊りを披露したとき俯(うつむ)いていたと、以前元三が私に報告したことがある。ヒンドゥ−教徒なら当たり前だが、最初からそんな舞踊を断わったらいいのにと、ヘンに思った。
すべてこれらの禁止戒律は、求道者や僧を安全に解脱させるための大師側の親切なのであろう。それを守る人に反対する気はさらさらないが、私には窮屈で合わないと思うのみである。生意気で傲慢で冒涜だと非難されても仕方がない。窮屈に縮こまって生きるよりはマシだと思っている。毎日うっかり悪事を行ない、ついつい悪い想念を浮かべて、自分を悪人だと責め通す人生はいかにも暗く、消極的である。メ−ヘル・ババというもう一人のアヴァタ−ル(神の化身)は戒律じみたことを一つも言わなかった。アシュラムで裸足になることも強制しなかったし、自分の居室で弟子たちに喫煙も自由にさせた。肉食も許した。イエス・キリストは肉食し、葡萄酒を飲んだ。ソクラテスも同じ。だからと言って、彼らの価値が下がるわけではない。
私はヒンドゥ−教徒にはなれない。


11.トアリ
                    在天神940115/1331
この本も55章で完結にする。両手合わせの吉数だから。それまでに、食業が来るといい。と言っても、来させようと思って念力を使うのではない。念力で成功したことは、生まれて以来、一度もなかった。だから、山田孝男(全国に信者は相当いる)が勧めるようなイメ−ジ法は私に縁がない。無効であり、むしろ害がある。念力によるオカルト的方法は黒魔術に陥る危険性が大きい。「エホバの証人」などは、按手による祈願的治癒も含め、あらゆるオカルトや心霊術をサタンの業(わざ)と断定している。そのくらいに潔癖なほうが間違いがなくていいだろう。キリスト教会でも、そういう神癒または霊癒を売り物にしているところはいくらでもあるし(日本の幕屋教会はその一例)、アメリカでも死者の霊を呼ぶのを目玉商品にしているチャ−チがある。
四通八達の「気の筧」は、誰も否定できない事実である。その「かけひ」において、私が「この8人家族が食べてゆけるように、神さまお願いします」というのは、必ずどこかに届き、そういう計らいが行われるだろう。魔術でも何でもない。エゴイスティックな行動ではない。誰かの仕事を減らしてこちらに回してくれという強請(ゴウセイ)ではない。「クラスメ−トがみな失敗して、僕が一番になりますように」と念じているどこかの進学生とは違うのである。競争試験という言葉はあるが、私は学校時代、競争を意識したことは一度もなかった。ただ、全力を尽くした。会社員をしたことがないから、同僚を蹴落として出世するというような醜いことをしたこともない。サラリ−マンだったとしたら、自分よりも同期の社員の友が先に出世することを望むだろう。トップは居心地がいいものではない。酒なら二級酒が美味しい。(尤も、今はないけれども。)

青山圭秀さんは若い頃に、私が訳した『超越瞑想入門』(読売新聞社刊)を愛読してくれたそうだ。TMからはやや離れてしまったが、もっと本物のグルについた。牧野元三もこのTMの本が機縁で私の弟子になった人だが、やはりサイババのほうに行ってしまった。青山博士の『アガスティアの葉』は都会的な瀟洒(ショウシャ)な題名だ。Agastyaは、ア−リヤ人の賢者でヴェ−ダを南インドに伝えた人。「葉」というのは分からない。出版を心待ちにしている。私のサイババ・シリ−ズ6冊は不良本であって、どうせベストセラ−などになりはしない。それでも読みたい人は松嶌徹さんから入手してもらいたい。連絡先は尚美会(532大阪市淀川区宮原4−4−50真和ビル6階・電話06−395−0550)である。
彼の真名の十蟻は、アリガトウのもじりである。蟻のように勤勉で、「十」菱麟をいろいろ助けてくださった。感謝をこめての献名である。英語ではTEN ANTSという。


12.寺社に参る
                      在天神940115/1400
「正時」である。この造語は分数の過不足のない「ちょうどX時」という時刻である。私の行動や思考が正時に区切りがつくときは、いつも私の人生は自然の流れに奇麗に乗っている。これは私が決めてそうなっているのだが、君もこれを採用することはできる。時刻に注意するだけでいい。今の午後2時は、右上の数字を書いているときに、私の腕時計がチンと鳴った。
こういうのは黒魔術でも白魔術でもない。オカルトですらない。普通の自然現象である。ただ、心で意識するだけでいいのだ。
ウツと失業