占いは馬鹿にするものではない。あのユダが師を売り渡して、そのあと自殺をしてから、残った使徒たちは集まって欠員をくじ引きで決めて、元どおりの12人にした。くじ引きは占いの一種である。しかし、神に祈らなければならない。個人の利益でなく全体の利益を願うのである。占いや籤引きではない祈りの行為にも、いろいろの注意が必要だ。成田の不動尊で利益(リヤク)の祈願をすることは一向に差し支えないが、ああいう人気のある仏閣や神社には、昔からの参詣・参拝者の物欲の念が分厚い層になって積み重なっている。その念の影響を受けたりすると、死霊・生霊(イキリョウ)の憑依(ヒョウイ)を受けることがあるから、まず心を清浄にする祈りを行なわなくてはいけない。無念無想、無心無雑の心境になることが肝要。その上でたとえば、「息子が大学に合格しますように」と祈願すればいい。最初の条件である純白の心にならないで何を祈っても、実現する気づかいはない。成田や浅草のような混雑した寺社よりは、村の小さい祠(ほこら)で祈るほうがずっといいだろう。もちろん、有名な寺社の僧侶や神官はそんなことを勧めはしない。彼らは商売でやっているからだ。(朝からのキ−の打ち続けで、指が痛くなった。すこし休む。14:18。)


13.音仁が短歌最優秀賞
                           在天神940116/2034
朝方、2時間火燵寝して8時半には起き、何年ぶりかで背広を着て赤いネクタイを締めた。「エホバの証人」である佐保秀臣君が車で迎えに来て、隣町の三重町にある「天国会館」の日曜礼拝に出かけた。神奈川県海老名市に日本のセンタ−がある「ものみの塔聖書冊子協会」から巡回宣教に来ている二宮兄弟のお話を中心に、9時半から2時間の説教と学習があった。佐保秀臣君は25歳、独身。母子家庭の母上はいま内臓の病気で臥せっているということで、いつも朗らかな彼の眉根に縦皺が刻まれていたので、尋ねてみるとご病気とのことだった。
一般のキリスト教会に対して、彼らのグル−プは「協会」という。サンスクリット語でいうダルマ面、道徳の点において、この「協会」の人々は厳格で清潔である。サイババの教えと同じように、演劇・映画・テレビ・小説・音楽・美術などのうち、人を堕落させる影響力のあるものからは、キチンと自分を離している。帰りのドライブ中に、「皆さんはカ−・ステレオで音楽を聞かないのですか? モ−ツァルトなどはいいのですか?」と私が尋ねたら、「それは自由ですが、喧噪なロックを好むような人は自然と脱落するようですね」という答えを得た。
プロレスなどはもちろん見ないだろう。私も昨夜すこし見たが、悪ガキの遊びみたいですぐ飽きてしまった。タイガ−マスクがライガ−に負けて、悔しまぎれに自分のマスクをはぎとって、ライガ−に投げつけた。あれじゃマスクの意味もないのにと、奇妙な感じがした。とにかく、昔のように引き入れられて見ることはない。女もプロレスを見るという。ストレス解消にいいとか言うのだが、あれじゃ解消以上に何か闘争の情念を背負い込むだけだろう。幼稚な娯楽だ。
「エホバの証人」の集会は爽やかである。昔は毛嫌いして、彼らに喧嘩を売ったこともあるが、サイババの言うとおり、どこのどういう宗教団体でも、それぞれのレベルにおいて、ちゃんと全知・全能・全在・全愛の宇宙絶対神(長たらしく言うとこうなる)が生きて動いておられる。「エホバの証人」たちはこれをエホバと呼ぶが、呼び名は無限にあるだろう。
帰ってから食事をして夜7時まで5時間ぐっすりと眠った。次男・音仁が竹田市で催された大分県の「中学生・高校生短歌コンク−ル表彰式」から帰っていた。中学生の部で最優秀賞を取ったのである。中高合わせて、1304人のなかで、それぞれ一人が最高栄冠を得た。褒めてやった。大分合同新聞社は彼に楯と賞状を送った。その作品は次のものである。

雪の夜冷たく白い息を吐く何を思うか歩み去る人

選者の評は次のとおり、「上句が情景で下句がそれに対応する心情となっており、短歌構成の基本を踏まえている。こうして四句五句が幻想的な深い詩情をたたえている。」父の私は、これを次のように直したい。「ゆきのよる」を「ゆきのよに」に変え、全体を文語文にしたい。
雪の夜に冷たく白き息を吐く何思ふらむ歩み去る人


14.三人開魂
                     在天神940116/2256
睡眠・覚醒交替リズムを、まったく「気」まかせにしたために、昼も夜もない。布団を敷く(引くは間違った日本語)ことも当分あるまい。食事の時間も全く不定である。一日何食たべるかもわからない。私の体重は20代から55キロの一定値を保ってきたのに、このところ52キロにまで落ち込んでいる。身長165センチ、67歳の仙人風になるのであれば、それもこのままでいいのだろう。規則正しさという健康原則にも真っ向から逆らっている。いいのだ、私の場合は。
音仁と並んで、高校生の部で最優秀賞をもらった大分高校3年生の雄野真理子さんは、次の可愛らしい相聞歌(ソウモンカ)を出している。

離れてもあなたの面影抱きしめて同じ時間を生きているから

「マネキン2」というアメリカのおとぎ話映画を2時間ほど見ていた。奇麗なプリンセスが出てくる。その相手はハンサムな現代風プリンス。相聞(恋の歌)には年齢があるのだろうな。67の爺は涎を垂らして、美しいお姫様を見ていた。その途中で、京都のスブドのヘルパ−井原将昌氏から、大阪の妙妙、一如、泰冠の三人が開魂を済ましたという電話があった。泰冠(治療師)のマンションにいま電話したら、三人ともしっかりした反応があったということである。三人中一人だけ、妙妙は目をあけて回りの様子を観察していたとのことだ。これをやる人はめったにない。100人に一人いるかどうかも分からない。つまり、スブドは自分対「全知・全能・全在・全愛の宇宙絶対神」との関係を確かめる行法であるから、回りの人々が何をやっているかは全くどうでもいいことだからだ。まあ、初めのうちの好奇心がさせたことであろう。妙妙は面白い人だ。去年の高野山におけるサイババ大会でも、バジャン(讃美歌)のときグウグウ眠っていた。ある意味で羨ましい青年(ヘアには白いものが混じり出したが)である。
大阪にはイスカンダ−ルという名の回教徒のヘルパ−(霊的面の世話人)がいる。インドネシアのムスリムたちがかぶる円筒形の帽子を片時も離さない。スブドは開祖のムハマッド・スブフがムスリムだった関係で、スブドにはイスラム教徒が正統派であるといった雰囲気がある。本当はそんなことはどうでもいいのである。妙妙は法華経が好きだし、一如は天理教をやっていたし、泰冠はヨガの瞑想をやっていた。そういう宗教差は形式の問題として重要視しないのが、スブドのいいところである。それを抜いたら、イスラム系のただのただの神秘行法運動になってしまい、惜しいことである。あの三人はもう長年私とつき合って、
ウツと失業