16.水鳥のように
在天神940117/1850
神さまにお願いしてある。職を下さい、お金くださいとあちこちに闇雲に頼み回っても何にもならないだろう。どう動いたらいいか、その一歩一歩が私には分からない。神のお告げというようなはっきりした形を期待するわけではないが、何となく促されるという形で神さまが導いて下さることを信じている。
今日は、タイの第二次世界大戦中の古戦場を訪れた和歌山の法優さんから手紙が来て、そのなかに私の亡母の供養にと、お花代の5000円が入っていた。有難く頂いて、それを食料代に回した。「風がもてくる落ち葉」なのだが、その風がどういうものなのか、どういうわけで吹き回してくるのかは分からない。冥助、つまり見えない助けが私たちを包んでいるのは感じられる。
東京の円山普薫さんから、フ−チによる判断が来た。私の前世が13回あって、そのうち12回までが女体を取ったと書いてあった。私は色が白い。肌のきめも細かい。そのようなフシもあるが、ただの一回しか男性でなかったとはね! そのフ−チ判断を疑う決め手もない。前世については、いろいろの人が違ったことを言う。正直なところ、どれが正しいか分からない。
返事の書きようもない手紙も来る。岡山で旅館を経営している婦人が、ヤクザの嫌がらせを受けて困ると言ってきた。そのヤクザを憎めとも書けない。AUM SAI RAMとマントラを唱えて、難を避けなさいと簡単な返事を書いた。どんな縁でも大切にしたいと思っている。山陽地方に旅する人があったら、岡山市一宮882の豊洲荘(電話0862−84−0686)に泊まったらどうですか、と書いておこう。ご主人は深井淑子さんである。この民宿にはZA托鉢時代に牧野元三君と泊まったことがあった。淑子さんは若いときから大変苦労した人である。一晩、苦労話を伺った。そのあと夜具に焼け焦げをうっかり作って弁償したことを覚えている。人生にはかずかずの一駒がある。今日もその一齣である。その多くは忘れてしまうが、いくつかは後になっても残っているだろう。
いろいろの人にさまざまの感情を持つ。人生は千波万波が展開する大きな海のようだ。その波がだんだん静かになる。凪いでくる。意欲は、強い衝動か弱い衝動を伴う。それも次第に静かになる。いったい、本当に自分は何をしたいのだろうかと、内部にいつも尋ねる心が大きくなる。衝動的に動くことが少なくなる。小さい波で何となく何かをやるようになってくる。それとともに、自分が何かをやるという意識が薄れてくる。大きいうねりに静かに乗っている木の葉のような自分が実感されてくる。実は、自分が何かをやっていると思い込んでいたのは幻想かもしれない。宇宙には、一つの大きな確実な知恵と力が着々と動いていて、自分の動きはそのなかの微小な波、またはそよぎのような気がしてくる。自分というものの存在感が薄れてくる。
失業して貧乏である自分。たしかにそうなのだが、そのままの境遇で何となく生かされている。できるだけの仕事をしよう。今なら、この文章を一字でも先に進めてみよう。一歩でも進めば、その先の新しい眺望が開けてくるはずだ。止まっていたら、人生の景色は変わらない。しかし、ありがたいことに、生命は静止するということがない。方向はどこであってもいい。生命の潮(うしお)に自分を任せてゆこう。疲れたら止まって休もう。水鳥のように、ただ海面のゆらぎに身を任せて、とろとろ眠ろう。

そして、まもなくして、この本を書き出してから二度目のウツがやってきた。手も足も出なくなり、10時20分PMには布団を敷いて、1月18日の朝7時まで昏々と眠った。それからテレビのニュ−スで知ったが、私がウツに落ちたころロサンゼルスにマグニチュ−ド6.6の地震があったということだ。私の「気」に、地球上のどこかの災害が連動しているのだろうか。


17.自慢話
在天神940118/1348
人が自慢話(自己慢心の話)を始めたら、どうしたらいいか。自分も負けずに、相手を上回る自慢話をするか、それとも相手の天狗の鼻をへし折るか、または「ちょっと失礼」とどこかに逃げてしまうか。どうも最後の方法が一番いいように思える。しかし、長い生涯を振り返ると、初めの二つもだいぶやってきたようだ。それはみな後味がよくなかった。 最初から自慢人間とつき合わないのが、さらによさそうだが、この世の中はそう簡単にいかない。みなが自慢をしている。「私のが一番いいよ、最高だよ」と揃って商売をやっている。泣いている赤ちゃんを眠らせるテ−プだとか、前世を思い出したり未来を体験するテ−プなどが発売されている。その方面で教祖のような存在もいる。桜井ゆみ。何の恨みもないから、悪口を言おうとも思わないが、沢山の人がこういう教祖に群がるのだろうな、とは思う。
自慢する人はおおむね自分の成功を語る。失敗だらけの人ですらも、他人より優れた自分の学識や能力を誇る。自慢の種のない人はひとりもこの世に存在しないくらいにも思える。それがエゴだろう。どんな小さい切れっぱしでも、みなが自分のエゴを大切にして、それをスタ−トにして自信の核を作り、何とか人生をやっている。
私にはそういうものはないな。多少の能力があったにしても、それは宇宙の広大さに比べれば、バクテリアのようなものに実感される。少しは人の真似をして、自慢話をすることもあるが、あまり本気ではない。自慢話を喜ぶ人などひとりもいないことを、私はよく知っている。人に嫌がられないためには、いっさい自慢話をしないことだ。それでは何を話したらいいか。卑下話か。「私はこんなにつまらない者でございます。これこれの弱点や悪いところがあります。どうか、みなさん、私を馬鹿にしてください。蔑んでください。」そうか、こんな奴より俺のほうがまだましだ、ホッとするよ、と喜んでくれる人もいるだろう。すると、卑下話や失敗談も世人のためになっているのかな。他人のエゴをふくらましたり安定させるのは善事なのかな。お互いにエゴ拡大に尽力するのは、助け合いになるのかな。
卑下慢という言葉もある。卑下という形で、やはり自慢をやっているというわけだ。逆手に出て、やはり自慢をやっている。卑下でも高慢でもない普通のありのままで生きてゆければ、それは最高だと思う。いや、最高という言葉はあまり適当ではない。最高も最低もない、ある爽やかな世界だと思われる。
私のこの「失業本」も、「鉢かづき姫」の物語みたいに、最後はめでたしめでたしに終われば言うことなしとは思うが、そう旨く運ぶかどうかは分からない。ハッピ−・エンディングは映画の常道。観客の気は収まる。「ああ、よかった」と安堵して家路に就く。どうなるか分からない不安な結末で終わる映画もないことはない。人生はエンドレス・テ−プみたいなもので、ある部分を切り出して、それに起承転結を付けることはできる。それは編集技術のようなものだ。アットランダムに、出任せに、ある部分を取り出したら、それは無意味な混沌である。意味をつけるのは人間。無意味なままに放置していたら、それは原初の混沌である。しかし、人間は意味をつけすぎる生物ではないかと思えてならない。無理に意味づけをしないで、混沌のままに、その混沌のなかで遊んでいるわけにはいかないのだろうか。
プラス思考とかYES思考とか言って、積極的な想念を絶えず抱いて人生を勝ち取ってゆこうよと主張する人々がいる。暗いことを考えつめていると、そのようになりますよ、不幸が来ますよ、と脅迫する。そんなことを言われても、暗い考えが自然に浮かぶのだから仕方がないではないですか、と反抗する。「光明思想のあなたがたよ。皆さんはとても幸せなところにいらっしゃるのですね。わたしは暗いところにいるのです。そちらに来いとお勧めなのはよく分かるのですが、そんな努力ができるわたしではありません。ほっといてください。おまえは暗黒だ暗黒だとあなたがたに指摘されると、わたしの暗さはますますひどくなります。」
ウツと失業