光だ闇だという二元論は、私には全く合わないものになっている。光を自慢したり、闇を自慢したり、この世は自慢だらけ。自慢話の聞こえない世界に行きたい。


18.無欲になった臨時雇い
                         在天神940118/1434
東大で(これは自慢)、「生長の家学生会」のメンバ−だった関係で知り合った先輩に、橋本健博士がいる。彼は頭脳にアルファ波を出すアルファコイルという機械を発明した。私にも一台プレゼントしてくれたが、効果はなかった。「シ−タ−波が出る人には、逆効果のこともあります」と博士は言っていた。ある牧師にそれを呈上したが、やはりあまり効かないということだった。これを言ったところで営業妨害にはならぬだろう。アルファ波が必要な大衆の数は多いのだから。
橋本博士の会誌に、ある婦人の報告が載っていた。「アルファコイルを使用するようになってから、あらゆる欲望がなくなって、非常に静かに幸せになりました。現実生活には何の変化もありません。ご利益みたいなものはありません。ただ、欲望が全部消えてしまったことを有難く思っています。」
これを読んだ私には感銘があった。病気が治ったとかお金儲けができたという体験談より、どれだけすっきりしているか分からない。「欲望が消えた」というのは大きなことである。人間のすべての苦悩は欲望から発しているのだから、その根本原因が消えてしまったというのは最大のご利益である。その婦人はどこぞの会社の臨時雇いの身分である。その貧しさを解決したのではなく、「そのままに」幸せになったのだ。
私にもそれしかない。昨夜はきわめて正常に布団のなかでタップリ眠った。起きてからもまだ眠くてたまらず、また3時間も眠った。目覚めれば、またあれやこれやの人生苦がやってきそうで、そのまま永眠したいくらいだったが、やはり目覚めてしまった。奥深い内部に或る種の変革が起こった気がする。あの臨時雇いさんと同じように、外部世界には何の変化もない。ただ、内部が静かになった。無欲であり、あれをしよう、これをしようの意欲が湧かない。柏市の二三四さんから美しい絵入りのはがきが来たので、その絵を讃える感謝状をしたためたくらいが、今日の仕事だった。もう3PMが近づいている。クリシュナが愛した植物トゥラシの栽培法を翻訳する仕事(無料)が机の上にあるが、それにもあまり気乗りがしない。これが一枚一万円の仕事でも、今の私にはあまり気乗りがしないだろう。お金のエサで仕事をするという心境は、あまり気持ちいいものではない。それをやると食業意識が全身を占領し、私は物質次元に落ち込んでしまう。「どんな仕事・義務でもそれを神さまへの捧げ物として喜んでおやりなさい。結果はどうでもいいのです。それも神さまにお供えしなさい」がサイババの教えであるが、そういうふうな「想い代え」は、私には苦手の一つである。観念操作という手順は、私には白々しい。もちろん、サイババの指導は最大多数の人々にとって好適なのだろう。一風変わった例外的人間に対しては、一対一の個人インタ−ビュ−でそれぞれの指導をするのが、サイババのやり方である。遠いインドにいるサイババではあるけれども、彼が「全在」の人であれば、また「ひねくれ者」をも気に掛ける「全愛」の人(または神)であれば、私に合った指導を絶え間なく下さっているはずである。だから、私は心に聞こえてきたままにこのような文をつづっている。


19.ハウツ−無効の人間
                        在天神940118/1502
サイババは直訳しても日本人には合わないと決め込んだ私は、あえて意訳を試みることにした。その結果の一つがこの『ウツと失業』の執筆である。精神と物質の二面における最低の状態が鬱病と文無しである。ところが、「エホバの証人」の日曜礼拝に出席したとき、宣教者は貧乏の苦しみのことを一言もいわなかった。それだけ、現代は貧苦に悩む人が少なくなっているのかもしれない。私は例外的な人間なのだろう。ウツの話は説教に出た。物質豊満の世の中にも、いや豊満だからこそ、この病気だけは増えているからである。 貧苦から逃げ出そうとしてバタバタしなくなった。去年の2月にインドから帰っての、あのジタバタ苦悩をくり返すのは嫌だからである。あのころはサイババに手紙を送った。「商業的な翻訳はしたくありません。あなたに関する翻訳だけをしたいのです。残る生涯をそれに捧げたいと思います。何とかしてください」と書いた。結果はその通りになった。報酬の伴うサイババの講話集の翻訳を6ヵ月ミッチリやった。そして飽きてしまった。結局はそれも「食業」になっていた。こんな内容は日本人には受け入れられないなと思いつつ、やはり収入という「餌」のために、自分に鞭打って仕事をしていた。師走にその仕事も終わってしまった。サイババの翻訳は当分来ないだろう。あるいは全く来ないかもしれない。来ても、私はそれを「食業」としてやるだろう。奉仕としてはしないだろう。私は無条件無批判の盲目的帰依者ではない。サイババのこころを日本人に染みこませようという仕事はやりたいし、それは「本業」だろうと思っている。しかし、それは機械的な翻訳仕事のようなものではない。
食業と本業の二本立てという人生構造はまったく困る。そういう器用なことは私にはできない。ダイヤモンドでも売買して、金と余暇を作り、それを奉仕に当てるというようなことも、私には向いていない。シュリ−マンはトロイ遺跡の発掘という夢を実現するために、その方法を採用した。ロシアでインド藍の輸入などをやって莫大な富を得た。器用な人である。二本立て人生の巧者だ。私が乞食をやっていた16年は、食業と本業がピッタリ一つになっていた。乞食で金を貯めて(そういう人もいるとは聞く)、それで何かをしようというのではなかった。乞食に生きがいがあり、その生活から多くのことを学んでいた。しかし、その時期も終わってしまった。本気ではやりたくもないことをカネのためにやるという二本立て生活に入った。そして、改めて周囲を見回すと、たいていの生活者は「二本立て意識」を持ってないことに気がつき、奇異の想いをした。ガソリンスタンドの経営をしている人はそれを「本業」と思っているし、私の隣家の山田農園の主人も疑いなくそれを「本職」と思っている。それ以外の営みはいわば「趣味」なのである。だから、世間の人々は「一本立て人生」に満足しているのだった。
細川首相もエリザベス女王も、三重町のベニス理髪店の主人もJRの改札係も、全員が一本立ての人生を営んでいる。私だけがどうも毛色の違う例外的奇物であるようだ。奇物に失業というお添え物が来れば、これはたまったものではない。歌人として村の有名人となった十菱音仁も、高校に進学できるかどうかすら怪しくなる。この父親は生活苦解決の自信など皆無である。流れに任せているだけのジリ貧である。愉美子はこの「別れた主人」をどう操縦し運転したらいいのか、思いあぐねているのに違いない。「金の卵」でもないし、「金を生らす木」でもない。愉美子母子が経済的に豊かになるといいなと思っている
ウツと失業