だけの元・亭主であり、今・父であるだけだ。責任感がない、義務を果たさない、と私を責め立てても仕方がないだろう。現実に何もできないからである。イメ−ジ法も積極的考え方の力も何も、あらゆるハウツ−の効かない人間なのだから。


20.紀野一義
                    在天神940119/0544
そんな名前の男が実在するのだろうか? 非常に下らぬ軽薄な夢を見ている自分を発見し、呆れて5時すぎに布団から飛び起きた。何でも私がインド人の青年になっていて、愛するインド美人を日本人・紀野一義の毒牙から守るために奮闘するといった大衆小説もどきの夢だった。そして、そのキノ・カズヨシという男はロックの歌手と来ている。コントロ−ルの利かない夢の世界には、こんなチミモウリョウが屯(たむろ)しているのかと、呆れ果てるばかりだった。
私は若い時から飲食物と金銭の夢はほとんど見たことがないが、セックス、天変地異、追跡され殺されかかる夢の三つは繰り返し見てきた。しかし、最近はよほど眠くならないかぎり眠らないという生活を続けてきたために、夢はほとんど見なかったのに、前夜の快眠の記憶に引きずられて、大して眠くもないのに布団に入って、4時間も夢つづきの惰眠に空費した。桑原桑原、心すべし。
夢に限らず、日常覚醒生活において、真に「まじめ」な生き方というのは何かという根源的な問題を考えざるをえない。男女のことを含め、感覚的快楽に関することはすべて不まじめである。欲望はすべて浅薄だ。釈迦の出家の動機になった生老病死の四苦は真面目と言えるだろう。老と病は死の原因であるから、結局は生死の問題だけが残る。死を直視したときにのみ、人は神を思う。死の恐怖だけが人を真面目にする。飢餓に苦しんでいる人々や、癌やエイズのような死病に取りつかれている人たちは、否応なしに真剣に生きているだろう。戦場で銃を握り、いつ殺されるか分からない兵士も真剣に生きているにちがいない。愛人の写真を懐に抱いている兵隊も、敵弾に当たった瞬間には「お母さん!」と絶叫して果てる。色恋の沙汰も、母への思慕の情には掻き消される。すでに母を失った老兵は、絶命のときに何を思うか。それは神ではないか。母とは「絶対に自分を愛しつづけてくれる者」の地上的代表・象徴である。「お父さん」と呼んで絶命する兵隊はいない。だが、クリスチャンは「天のお父様!」と呼ぶかもしれない。そのほうが、地上の母への肉体的思慕よりは次元が高いのかもしれない。
失業の悩みは、煎じ詰めれば餓死への恐怖から来ている。中間的には、貧困がもたらす社会的恥辱も入ってくる。貧困はまた、金銭で買うことができる肉体的快楽の断念につながってくる。貧乏な男はオンナにもてるということはありえないし、食うや食わずでは酒煙草のような贅沢も諦めねばならない。だが、私の16年間の乞食生活(その前にも数年間あったが)には、女には不自由しなかったし、飲食物はついて来たし、酒煙草を節することもなかった。前世からの果報が尽きなかったためだろう。苦行というには程遠い。釈迦やキリストは断食し、寒暑を無視した。その足もとにも寄れない。私は、世間周辺の比較的安楽なところに留まっていたにすぎない。
肉体的・物質的・金銭的安楽のなかに惰眠をむさぼっている日本人のなかからは、人類の苦悩を救うような光明あるいは精神的価値が生まれることはないだろう。子供たちはファミコンにうつつを抜かし、ヤングはロックに興奮し、大人は相変わらず贅沢と生活的利便の追求に明け暮れている。すこしでも気を緩めれば、この全国的な快楽主義の大波に呑まれてしまいそうだ。
道徳の強調などは全く無効だろう。この国の人々には、蛙のつらに水である。政治家や金権を操る人々に不道徳を発見すれば怒鳴り立てることはするが、国民そのものが内面では道徳的に腐敗しているのである。道徳を無視して巨利をむさぼった連中に対して、嫉妬と羨望の混じった怒りをぶつけているだけにすぎない。同じレベルでの内輪揉め。どうもいけない。この濁った空気から脱出せねばならない。それにしても、紀野一義とは何者だろう?


21.Hさんから救援
                       在天神940119/1124
F市のHさんから3万円の寄付来、毎月の御厚志である。溜まった郵便物を出したかったが、愉美子は千円に押さえてくれという。失礼ながら焼け石に水で、サラ金の枠ももはやギリギリだから、どなたかに借金を申し込めないかしらと言う。スブドの田原さんはどうかと訊く。スブドのためになるならともかく、貧民の救済ということでは駄目だろうと、私は答えた。「仕事が来るまでのつなぎを何とか考えているのです」と愉美子。棚ボタ志向か、サイババ信仰か、それは分からないが、私はサイババの意訳をやらねばならないと思っているだけ。「儲け仕事」が来るという保証はどこにもない。
Hさんから、プッタパルティにいる牧野元三さんが通訳したサチャ・サイ講話の日本語訳の奇麗なプリントも同封されていた。北九州の折尾に開かれているサイババ月例集会にご出席の岩崎さんがキチンと印刷してくださったものだ。私はそれを愉美子に回した。
結局、溜まった郵便物は、小包以外みな出していいわという許諾を受けて、私は清川村の郵便局に行った。2000円を少し越えた。24日から手紙類は2割弱の値上げになるという。吉岡局員に、「あなたがたの給料問題ですから、喜んで負担しましょう」と言ったら、いつもの3倍の能率で一生懸命に秤量と計算器処理をやってくださった。有難いことである。一万円からの釣銭を流用し、これは愉美子への不正直だが、無断で清酒ワンカップ一つ、20度麦焼酎1個を購入した。故に、この章はアルコ−ルの影響下にある。
同じ郵便で、「心境同人共同体」からの小包があり、そのなかには、私からのすべての手紙、テ−プ、贈呈の音楽テ−プが悉く返送され、もはや関係を持ちたくない旨の拒絶状が入っていた。社会奉仕に励む無私の立派な団体であるが、私のような規格外の不倫人間を受け入れるようなグル−プではない。当然と納得する。怒りや不満は湧きようがない。ただ、私の理想主義からの夢で、あまりに多くを「心境同人共同体」に読み込んだ私自身のロマンティシズムを、「若いなあ」と反省するばかりである。同じ過剰読み込み(読み出しのほうが正確かも)を、きっと「エホバの証人」にもやっているのだろう。それぞれの限界を無視して、「その方向に行けばこうなる」という100%の理想解釈ばかりを、私はいつもやってきた。個人に対しても同じである。個人の現実の今の状態は私にはあまり興味がないから、接線方向に無限に延ばして、たとえば藤川和夫君を「不二一如」の人とみて、それを「真名」とした。牧野元三君も、私から離脱してオウム真理教に逃げる前には、私は彼に「天真」の真名を与えた。「天のままに真実」ということである。その彼が今はプッタパルティにいて、日本からの求道者のために、サチャ・サイの講話を通訳し、それがすでに日本語訳の印刷物となって配布されている。愉美子も先ほどそれを読んで感動したと、今この部屋
ウツと失業