ウツと失業
に来て、言っていた。
それは、1993年11月の「サティア・サイ・ババの講話」という表紙の付いた10ペ−ジの小冊子である。その6頁に次のようにある。

常にまわりを助け、決して誰をも傷つけてはなりません。自分が傷つけられた時には、「これは自分のためになることである」と考えなさい。あなたがたは困難や試練を経て、幸福になることができるのです。

私も微力ながら周囲を助けてきたつもりだが、同時に知らずして多くの人を傷つけていたことだだろう。自分が傷つけられるという感じは近ごろ薄れてはいるが、やはり「心境同人共同体」からNOと言われると、当然とは思いながら・・・、いや、やはり傷つけられたという感じはない。向こうが傷ついたのではないかと、案じるほうである。
 「困難や試練」−−うむ、これはタップリある。それは幸福への一本道なのだな、やはり。
この元三の翻訳を入手したい人は、つぎのかたにお願いするといいと思う。
林睦子さま
810福岡市中央区六本松3−3−15
電話092−751−7515
気功その他のご指導も頂けると思う。


22.ピ−ス
                   在天神940119/1232
前出の岩崎夫人はプッタパルティで、サイババから黄金の指輪を賜った。愉美子に、「岩崎さんに会って体験談を訊いてきたら」と言ったら、「人の体験談よりは自分の体験を深めたいと思う」という答えを得た。「もし、元ちゃんが大分市にでも来たら、そのとき彼からいろいろ聞きたいわ」だった。
44歳の牧野元三も、42歳の十菱愉美子には「ちゃん」づけの親しい仲である。二人とも、ギリシャ時代には私の愛児として兄妹だった。(しかし、科学的証拠がないから、私の妄想として受け取ってもらっても一向に差し支えない。)元三はギリシャでも今生でも優れた治療家だった。16年の行乞時代にも、私が病気になると彼はいつも治してくれた。彼の手のひらは静冽(セイレツ)な感じで、その冷たさのなかに私の病熱を全部吸い取って消した。神戸の三越の店内で、私の心臓が異常を訴えたときにも、彼は落ち着いて私を医務室に運んで、私の心臓に手当てをしてくれた。まもなくして快癒した。大袈裟に言えば、彼は私の命の恩人である。
今の牧野元三は、サイババの大生命のなかに自分を溶かし込んでいるから、前世以来の彼自身の神癒力を発揮していないかもしれないが、もし難治の病人が彼に治療を頼むならば、「サイババの恩寵をお願いします」と、一緒に祈ってくれるだろう。それは彼の個人的治癒能力ではなく、「全知・全能・全在・全愛の宇宙絶対神」からの「気前のいい」(愉美子の言葉)恩寵である。月末の支払いに頭を痛めていた愉美子も、元三のサイババ文を読んで、すっかり安心してしまったようである。
私は借問(シャモン、ためしに質問すること、禅宗でよく使う言葉)した。「王玉の大谷短大に、あと60万を夏に払うことができなくなると、中途退学になるよ。それから、優秀な音仁君だって、高校に進学できなくなるかもしれないよ。」愉美子は言った。「それはそれでいいのです。」
ゲンチャンが訳したサチャ・サイのお言葉に訊いて見よう。サイババの神数である9ぺ−ジの9行目である。何が出るか、私にも分からない。

自分の母親が大切であるように、他の人々の母親も大切にしなければなりません。

ズバリである。私の母の敏子は1993年8月24日に右の脳が腐って死去した。喪中により云々という印刷葉書も用意しなかった。賀状が来れば、おめでとうと返事を書いた。そんな形式で、人の同情を引いたってどういうこともない。自分の母を失った人なら誰だってその悲しさを知っている。すべての人類は母を失うか、あるいは自分が先立つ。イエスさまのように、母の前途を最愛の弟子のヨハネに託した息子もいる。
他人の母親を大切にする。よく分かる。私にとって一番近い他人とは、この家では6人のわが子−−王玉、悠久、音仁、通子、和平、日女である。彼らのかけがいのない母である愉美子を大切にせねばならぬ。それにはまず、愉美子に生活費を与えることだ。金を儲けることだ。一時は大分駅で乞食をやることも考えた。次に、大阪市役所に関係をつけて汲み取りの出稼ぎをすることも考えた。そして、「心境同人共同体」に合流も考えた。その他いろいろ考え、実行もしたが、今はどれも八方ふさがりである。「乞食」は一番手慣れているから、明日あたりから、大分市に出向こうか。愉美子は例によって反対するだろう。そういう非常識なことを嫌う普通の女である。しかし、日銭を稼ぐ一番早い手はそれしかないではないか。JR片道800円。特攻隊精神でゆけば、いくら何でも、帰りのJR代と昼飯代くらいは喜捨があるだろうよ。
要は実行するかしないかである。実行すれば必ず次の一手が見えてくるはずだ。
愉美子が納得する線は、格好よく「講談社から一冊物のミステリ−小説の翻訳を、主人(?)が引き受けましたので、ホッと致しました」だが、それこそ棚ボタ。そんなに人生は甘くない。
サイババ講話のP9L10には、次のようにある。

平安(peace)は心の内にあります。
外側にあるのは、断片(piece)ばかりです。

まったくその通りだ。AMENまたはAUMである。断片的解決法はゴマンとある。私はいつもどおり、短いPEACEを吸っている。


23.恩讐を越えて
                      在天神940119/1327
恩返しをしたいと思う。讐(あだ)は仇(かたき)のこと。普通は恨みとなり、復讐を誓う。旧約聖書にも、「目には目を、歯には歯を」という文句がある。私は「エホバの証人」の佐保秀臣君に借問(shamon)したい。(目には目をと汝の敵を愛せとの違いを含めて。)
「あなたがた、ファンダメンタリストは、聖書を字句どおり解釈すると聞いています。近代合理主義的な、また科学的な解釈では、処女マリアが子供を生むはずはないとしますが、そういう現代人の解釈に反対して、あなたがたは、エホバ神は"全知・全能・全在・全愛の宇宙絶対神"だから、性交なしに神のひとり子が誕生するのは不思議ではない、と断言します。それはいいのです。私もそれを信じます。だが・・・」
このあとは揚げ足取りになるから、神さまが私の口を封じてしまった。その代わりに次の言葉が与えられた。

今のキリスト教会は、カトリックもプロテスタントも、救いがたいほど堕落しているのだ。リンよ、よく聴け。イエスははっきり言ったはずだ。「ユダヤ教における律法の一点一画をも私は崩すつもりはない」と。殺人の罪も愛国心の美名において、教会群は黙許してきた。二つ