盤珪不生禅
5.戒律

 仏教に律宗というのがある。日蓮が他宗を誹謗したときに「律国賊」といったあれだ。私の10人の娘のなかに創価学会を熱心にやっている者がいる。彼女にはこの本は見せられぬ。サイババは「他宗の悪口は言わないように」と注意しておられるから、私がこのことを書くのは別に日蓮を攻撃しているわけではないが、読む人によっては誹謗者を誹謗していると取るかもしれない。剣呑ケンノン。
 律宗はシナで誕生したが、映画にもなった鑑真(ガンジン)が天平年間(753)に日本に伝えて、唐招提寺を創建した。(若い読者は日本史をこの際、復習してもらいたい。)西大寺にも真言系の律宗がある。恋人を連れて奈良に旅する時はこの二つのお寺にお参りするといい。出来れば婚前sexを控えるといいが、坊主でないからその必要なしと言われるかもしれない。しかし、あのフリ−セックスの元祖のような米国でも、AIDSの煽りで、ノ−セックス運動が広まりつつあるという。昨年(1992年)、ニュ−ヨ−ク・タイムズに「セックスはおとなのもの」という記事が出た。子供たちに純潔の尊さを教えたい35歳のママさんの寄稿記事である。ジョ−ジア州アトランタの公立学校では、保健の授業で、大人になるまでセックスは保留せよと教えている。全米の性関係の臨床医たちも、全米でまじめな関係で独身を守る男女が増えていると報告している。
 日本のエイズ禍はアメリカに比べればまだ微々たるものだから、この純潔運動では米国に遅れを取るだろう。アメリカの未婚女性のアンケ−トでは、16%が性的関係のある男友達を一人に減らし、6%が性交渉を全くやめ、9%が回数を減らし、12%が行きずりの男との性交を断念したという結果が出ている。
 そこで、300年前に戻るが、盤珪禅師の寺に或る夏、律僧が53人も修行にやってきた。そのなかに比丘(ビク)といって具足戒を受けた僧がいて、禅師に次のように申し上げた。「それがしども、常に250戒をたもちまして、これで成仏を遂げましょうと存じまするが、これがようござりまするか。また、悪しゅうございまするか」と質問した。
 この250種類を全部あげたら日が暮れるが、比丘尼(ビクニ)と呼ばれる尼さんになると、なぜか数が増えて348戒にもなる。女のほうが誘惑に弱いと見られていたのかもしれない。
 孫悟空の弟弟子に八戒という豚の化け物みたいなのがいた。あれはやはりブタ的な欲望の化け物だったので、三蔵法師によって特に戒められたのであろう。ごく控えめにして、五戒というのがあるが、これは在家の信者でも守らねばならないもの。曰く、
    1.不殺生(セッショウ)
    2.不偸盗(チュウトウ)
    3.不邪淫(ジャイン)
    4.不妄語(モウゴ)
    5.不飲酒(オンジュ)
 そこらの政治屋はみなこの五戒を破っている。兵隊や警官をカンボジアに送って、拳銃を自衛のために持たすだけであったとしても、襲われたら殺してもいいわけだ。完全に不殺生を守るなら丸腰で殺されに行くしかないが、東条以後の総理大臣もだんだんキナ臭くなってきた。
 キリストみたいに厳しい人になると、他人を憎んだり呪ったりするのも「殺生」だし、道で出会った美女にほぞ下を疼かせただけでも、「邪淫」であるから、その色目をくり抜いて捨てよとまで言われた。私は戦争中、食料難でアヒルを飼っており、ある日、包丁でアヒルの首を切ったら、首なしのまま胴体が歩いて逃げた。立派な殺生である。ヒンドゥ−教徒は肉・魚はもちろん卵も食べない。釈迦の教えは現代のインドで厳しく守られている。(2)も私は落第、万引きをしたし、月賦を踏み倒したこともある。(3)に到っては惨憺たるもので、人妻の掻っ払いは(2)にもダブルだろう。(4)の嘘吐きも落第だ。(5)は医者からアルコ−ル依存症の診断を受けたが、今年インドのサイババに救われた。さて、この戒律の物凄いのが比丘・比丘尼の厳守事項。それで、これなら大丈夫と思った比丘たちも内心不安だったから、盤珪禅師に質問したわけである。禅師のお答えは次のとおりだった。
 「いかにも悪いことじゃござらぬ。よきことでござる。しかしながら、至極はしませぬわいの。」
 「至極はしない」というのは、「それで完全満点ではない」ということだ。続けて、
 「それは、律を表てに立て、律宗というて至極のように思うことは恥ずかしいことでござるわいの。根元、律と申すは悪比丘のためにこしらえたもので、本色の衲僧底(ノウソウ・テイ)は、法式を犯して律を受くるように、しなしはしませぬわいの。」
 本当の、破れころもを継ぎはぎして身にまとっているような僧侶には律の必要がないと、言い切ったのである。
 私もソウルのオリンピックに行ったが、韓国の人から、肉食妻帯をする仏僧は世間が相手にしないということを耳にして吃驚したことがある。京都の祇園や先斗町・島原では坊主が酒色に溺れている例がゴマンとあるからだ。
 盤珪禅師は言葉を続けて、酒を飲まぬものには飲酒戒は要らず、盗みもせず嘘も言わぬものにはそれぞれの戒は不要のはずと言い、
 「しかるに、皆の衆が戒をたもつと言うが、戒をたもつの破るのということは、悪比丘の上のことでこそあれ、我は律宗じゃというて、律を外に立てて、至極のように言うことは悪比丘の看板をいだすようなもので、よきものもあしきものに似せて、悪しき者の真似をするようなものでござるわいの。すれば、恥ずかしいことではござらぬかいの。」 比丘たちは恐れ入った。ついで盤珪禅師は、持犯(ジボン)というのは生じた跡の名であって、初めから不生の仏心で居れば持犯の沙汰はないと断言した。持犯は持戒のことである。


6.超禅の悟り、破る

 アル中のために、日本では会員数5万人ほどの断酒会という組織があるが、推定200万のアルコ−ル依存症者には焼け石に水だ。アル中者はたいてい、「酒をやめるくらいなら死んだほうがまし」くらいのことを言うものだ。末期の水は要らなくても、末期の酒がほしいというのが本音。今は亡き裕次郎もひどいアル中で、食道静脈瘤が破裂して、大量の血を吐いて死んだ。あの献身的な北原三枝夫人が酒瓶をいくら隠しても、彼のほうは庭石のあちこちの陰にオ−ルド・パアやナポレオンを潜ませて、庭の散歩と見せかけては飲んでいたというから、周囲の力で止まるものではない。また、本人の意志も言うことをきかないことは、私の体験上はっきり言える。ウイスキ−の米国、ウォッカのロシアは、日本と並ぶ酒害国である。フランスでは葡萄酒がお茶がわりだし、ドイツではビ−ルが水がわりだ。世界中のアル中を救う組織としては、USAを発祥地とするAA(無名のアルコ−ル中毒者たち)というものがあり、全世界で100〜150万人の会員を擁するが、これも焼け石に水だろう。