盤珪不生禅
エスキモ−に生活保護法を適用したら、いちどきにアル中が増えたのは有名な話である。アザラシ漁でカツカツの暮らしを立てていたころのエスキモ−には、酒など高嶺の花だったのだ。
 大阪の寒山寺の宗徒だった超禅という男は和泉の庄屋で、黄檗宗の龍渓和尚に参じて、なかなかの出来と褒められていた。京都から南に行くと、玉露の名産地である宇治がある。そこにある万福寺というのが、この禅宗の本山である。(私は16年間の托鉢行脚で、日本中たいていの所に行った。それも観光バスと縁がない裏町の飲み屋やタバコ屋などをよく知っている。褒めたことではないが。)万福寺の当時の和尚が金持ちで祇園でよく遊ぶということを聞いていたので、そこの青年僧と知り合いだった私は無銭托鉢中、京都で路銀が切れ、いっそのこと金持ち坊主を呼び出そうと電話を掛けたが、恐れて逃げられたことがある。これも悪口になる。戒の一つをまたしても破ったようである。
 超禅という在家信者としては黄檗宗で点数のよかった優等生が増上慢におちいり、盤珪禅師が京都の地蔵寺にお出でになったとき、超禅が参謁・相見の上、世間話に入ったとき、盤珪禅師がふとご下問になった。「なんと超禅、修行底如何。」近ごろ、修行のほうはどうなっているか、と尋ねたわけだ。答えて曰く、「事のほか、修行仕上げ申すなり。尋常、魚肉または大酒飲し、賭け碁を打ち、寝たり起きたり、洒々落々の境界なり」と答えた。得意だったろう。なにしろ、黄檗宗で印可を受けたという誇りがあったからだ。
 シャシャラクラクというのは、シャレではなく、あっさりしていて、わだかまりがないという意味だ。
 そこで禅師が言った。「耳には入るまいけれども、身どもが流を聞かれよ」と前置きして、いろいろお説きになった。超禅は黙って退去し、その晩は寺で寝たが、同宿の別の人があとで報告したところによると、「終夜苦しそうにて、少しも寝ず」というありさまだった。次の日、超禅が禅師の御前に出て三拝すると、禅師はすぐに全てを見抜かれて、師もまた合掌し、次のように言われたという。ここは漢文調の記録であるから、すこし難しいが、威厳のある場なので、そのまま引き移す。(岩波本、P114。)
「常精進の拝、受けたり。仏法帰依の人は、そのはず。」
そこで超禅は、さらに三拝した。禅師は、
「禁酒の拝を受く。これも仏制なればその筈。」と言われた。
 超禅は「未曾有の因縁に遇ひ奉る」と落涙し、盤珪禅師の弟子となり、その後身持ちがすっかり改まったということである。そのことを耳にしての禅師の言葉は、次のとおりであった。
 「人々、悟りを重宝すれども 超禅は悟り破れて、無事の人になられ仕合せなり。」


7.明徳

 福島一雄兄の詩吟の気合いが入ったおかげで、本書執筆第一日は筆(ワ−プロだから指)の滑りが快調である。09:21から書き始め、今は20:01だから、10時間半は書き通し。もちろん飯を食ったりの休憩はあった。原稿紙換算だと26枚書いた勘定になる。 先だって、96歳で大往生を遂げられた芹澤光治良先生は文壇の最長老であられたが、90歳を越えてから毎年一冊のペ−スで小説を新潮社から出しておられた。私は「神の微笑」から先生の愛読者になり、数年前、東中野のお宅に推参して一時間の歓談を賜ったが、そのみぎり(文体が自然と古くなるね)、「先生は一日何枚お書きですか」と問うたら、3枚というお答えであった。私がうっかり、「志賀直哉先生は7枚と伺ったことがありますが」と申し上げたら、「君、それは若いときの話だよ」と笑われた。私は芹澤光治良先生より30歳も若いのだから速筆は当然だが、私の自己記録としては、学生時代に初恋の小説を一日で50枚書き上げたことがある。もちろん、速度は齢とともに落ちて行ったが、文明の進歩でワ−プロという奴が私を助け出した。「齢」などという字を丁寧に書いていたら、いくらでも時間がかかる。それに漢字をだいぶ忘れ出したので、辞書を引き引きだすと、さらに時間を食うことになる。物書き人間にとっては、フォ−ドによって自動車が馬車を駆逐したほどの大事件である。
 まあ、このような脱線が沢山あるから、この「盤珪不生禅」の半分は水増しだろう。しかし、泡盛だって生(き)で飲んだら胃をやられる。宗教本は特に漫談風にやらないと、誰もおしまいまで読んでくれまい。だから、私はTVの「笑点」などは一生懸命に聴いている。落語から教わることが多い。あの毒薬自殺の芥川龍之介もセッセと寄席に通ったそうである。その気持ちはよく分かる。私も「思想落語」のようなものを書きたいのである。私の親父・愛彦は大正末期の流行作家だったが、小説は父の代で終わり、私は「大説家」になると、20代から心密かに決めていたが、66歳にもなって失業し、ルビコンの川を渡ったカエサルか、猫を噛む窮鼠か、渡ったらその橋が爆破された兵隊みたいに、ひたすら「大説道」を前進するしかない。
 それにはやはり、足腰や心臓をいたわって、読者ともども四方の景色を愛でながら進むのがいい。漱石はその昔、こういうのを低徊趣味と言ったが、あれは東洋の詩を評した言葉だった。「低」は頭を垂れ考え事をしているさまである。そうやって、あちこちさまようわけだ。ハッと目をあげると、知らない家の庭のなかに入っていたりする。美しい姫が「あら、何のご用でおじゃりまするか?」とか訊いてくる。
 これも昔の文士が、「箸は二本、ペンは一本」と自分の稼ぎが生活に追いつかないことを嘆いたが、今どきそんな文士はいない。サラリ−で生活を確保しておいてから、直木賞にでも応募する。よしイケルとなってから転職する。すべて合理的なご時勢である。貧道をあゆむ「文士」など私くらいのものであろう。ブンシという言葉も廃語になっている。サムライはいなくなったのだ。そのかわり、調理士などが出てきた。
 さて、盤珪禅師の生い立ちを語らねばならない。普通なら第1章にそれを出すべきだが、私は出しそびれてしまった。盤珪の父は四国の浪人だった。また、儒者でもあったが、幼少のときに死別し、母の手で育った。貧しい家だったろう。ナポレオンは家に閉じこもって本ばかり読んでいたそうだが、盤珪は腕白坊主だった。餓鬼大将で近所の子供を引き連れて悪さばかりをしていたが、一つ変わった点は、2〜3歳のときから死ぬ話をすると非常に怖がったと、禅師自身が法座で述懐している。岩波本P43から引用しよう。
 「それゆえ泣けば、人の死んだときの真似をして見するか、人の死んだことを言うて聞かすれば泣きやみ、わるきことをも仕止めましたと申す。」
 幼少のころ、母の勧めもあり、儒学の塾に通うようになった。(ああ、指が疲れた。しばし休憩。20:50。江口洋介という若手のシャキッとした俳優が出る「ひとつ屋根の下」を54分間みましょう。)
 21:51。上の括弧のなかが外に出たがっている。両親に死に別れた6人の兄弟姉妹が実に健気に美しく生きてゆく傑作ドラマ。ホ−ムドラマは好まぬほうだが、たまにこういうのにぶつかると嬉しくなる。あの6人が青春のなかで傷つき戦い、勝利を得たときのお祝ビ−ルは実に楽しそう。宗教戒律でああいう仲間の酒をやめさせる気は私にない。私は自分自身と周囲を損なった乱酒だったから、私の中身の本心がOh,No!と叫び出しただけだ。超禅はあかん。自分のエゴののさばり自慢酒−−あれはいかん。盤珪さん、ありがとう!