盤珪不生禅
 その盤珪の出自を漢文のほうの文献で調べ直している。盤珪の父の姓は菅原氏、母は野口氏とある。後水尾天皇の元和8年(1622)に播州浜田村に生まれた。これは前述のとおり、龍門寺が建った場所である。11歳(数え年であろう)で父を失った。12歳で儒学塾に入り、「大学」を学んでいたときに「明徳を明らかにするに在り」という文句につき当たって、これが彼の公案となった。先生の答えは「性善がそれだ」と言葉の置き換えをしただけのことだったので、「その性とは何ですか」と食い下がった。先生は、それは人の本性、天の理とさまざまの観念的解答を出したが、盤珪はどうしても納得がいかない。このあたりを禅師自身の言葉で見直してみよう。P43だ。
 「久しくこの明徳を疑ひまして、或るとき儒者衆に問ひましてござれば、どの儒者も知りませいで、ある儒者の言ひまするは、そのようなむつかしきことは、よく禅僧が知ってをるものぢゃほどに、禅僧へ行ってお問ひやれ。われらはわが家の書で、日夜朝暮、口では文字の道理を説いてよく言へども、実に我らは明徳といふものは、どのやうなが明徳といふものやら、知りませぬと言ひまして、埒が明きませなんだゆえに、さらばと存じたれども、ここもとに禅宗はその頃ござらずして...」
 彼は親孝行であって、この明徳問題の埒を明けて、その結果を老母にも聞かせて安らかに死なせたいと願ったという。私も私なりの難問を抱えてこの齢にまでなったが、86歳の老母は東京で私のことを心配ばかりしている。私の鬱病と生活不如意を最大の心配としているから、盤珪のような孝心の足もとにも及ばない。
 少年盤珪はあちこちの談義、講釈、説法に馳せ回って、尊いことを聞いては家に帰って母に報告するという毎日を過ごしていた。並みの少年ではない。最後に、禅宗の和尚のところへ行ったところ、座禅しか解決の方法はないと教えられて、それから正式の座禅に入った。彼自身の言葉に戻ろう。


8.座禅・念仏・乞食

 「あそこな山へ入っては七日も物を食べず、ここな巌(いわお)へ入っては、直かに尖った岩の上に、着るものを引きまくって直かに座を組むが最後、命を失ふことをもかへりみず、じねん(自然)とこけて落ちるまで、座を立たずに、食物は誰が持って来てくれふやうもござらねば、幾日も幾日も、食せざることが、まま多くござった。」
 そういう命がけの修行でもなかなか思う成果は上がらず、彼は故郷へ帰って庵(いおり)を結び、不眠の行をしたり、念仏三昧に入ったり、さまざまの苦労をした。
 その修行時代に、京の五條の橋の下で乞食を4年やったこともあった。その乞食仲間に銭を失った男があり、それが盤珪を疑って、半死半生になるほどに叩きまくった。盤珪は言い訳をせず、知らん顔をして叩かれるままであった。このような難儀の受け方は、サッチャ・サイ・ババ(1926〜)の前世身であったシルディ・サイ・ババ(1833〜1918)が、やはり子供のころ、修業場(アシュラム)の同輩に妬まれ、後ろから煉瓦で頭を打たれて血だらけになって昏倒したにも拘らず、助け起こされて蘇生したあとでも、その加害者の名を言わなかったあの事件を思い起こさせる。盤珪の事件は、あとで別の乞食が盗人だったことが判明して、叩いた乞食が前非を悔い、盤珪を拝んで詫びたが、盤珪は別に喜ぶ色も見せなかったという。
 彼は山城の松尾(まつのお)神社に出かけ、拝殿に坐ったまま7日間の断食をした。松尾大社と現在呼ばれるこのお宮は、賀茂神社と並ぶ平安京の守護神を祭る由緒正しい社である。宮司はどこの馬の骨とも分からぬ乞食坊主を初めのうちは咎めたが、のちに感心して粥を作って振る舞った。大阪天満の不動のあたりにも乞食暮らしをして、薦(こも)をかぶって寝ていたと伝えられる。それはそれは言語に絶する苦行であったらしい。
 また、数ヵ月、川のなかに立って修行したり、九州豊後(今の大分県)に来たときは癩病の乞食と同居していたそうだ。その「かったい」(癩病人のこと)と食物を分け合ったりした。吉野山に籠もったこともあり、西日本一帯をあちこち行脚したようである。
 「居敷が破れて座するに難儀した」と彼は述懐している。「ゐしき」というのは尻のことで、そこから出血するために、小杉原という紙を1帖づつ取り替えて、その上に坐ったということだ。絶対に物にもたれず、横にもならないという難行だったので、彼はとうとう肺結核にかかってしまう。最後の手段として、故郷に帰り、いよいよ数年間の決死の籠居(ロウキョ)を始めた。


9.喀血して死を覚悟した

 彼は1丈四方の牢屋のような小屋を作ってそのなかに入った。椀などの食器の入る穴を壁にあけ、戸の入り口も泥で塞いで出入りできないようにした。食事は一日に2回だけと定め、直径1尺の丸い穴から食物を差し入れるようにした。食べ終わると、その椀を外に出すのだから、今の刑務所とそっくりである。大小便は内側から排泄して、溝を通って外の厠(かわや)に流れるようにした。
 このような修行をしていれば、いわゆるオカルト能力が開けてくるものである。それは悟りと直接関係はないが、いわば副産物のようなもの。正式に師匠のもとで、この神秘能力が開けかかると、師匠がそれを「魔境」として、修行者がその虜(とりこ)にならぬように留意するものであるが、盤珪の場合は無師独修である。彼はどうしたか。
 私もインドネシアから渡来したスブドという神秘修行をしていたころ、やはりカラ−テレビのように極彩色で遠方か前世の景色が見えたり、女の生首が暗闇のなかに浮かんだり、いろいろ奇妙なことがあったが、それを通過したら何ということもなくなった。死霊が頼ってきても、それが少しも怖くなく、しばらく自分の体に憑らせてから、その霊を高い世界に上げてやるということが自然に会得されたが、盤珪にもそのようなことは種々あったと思われる。記録によれば、あるとき壁の穴の端に、何やら反故紙のようなものがチラチラしていたが、盤珪から「それを取って見やれ」と言われて、外の者が取って見たところ、10日も20日も先のことが書きつけてあった。「幾日にどこから何が来る」とか「伊予から使者が何日にこういう用で来る」というような予言だった。予知能力が盤珪に開けてきたのである。
 しかし、肺結核はだんだん重くなり、喀血したものが乾き切った土間にころげて、土とともに丸まるようになった。彼が血痰を壁に吐きかけたら、それがやはりコロリコロリと玉になって転げ落ちたという。周囲の者たちが心配して、庵(いおり)に移って養生せよと勧めたので、盤珪もその牢から出て、下僕を一名使って養生をしたが、いよいよ重体となり、食欲が衰え、七日ほども重湯しか喉を通らなくなるほどになった。それで盤珪は死ぬ覚悟をして、ほかに残念なこともないが、これだけ長く苦労をしたにもかかわらず、所願の達成ができないとはと、いささか嘆いたようである。