ところが、その次の思いがけぬ内面転換は、彼の説明が簡単すぎるために、他の者にはあまりよく分からないのである。彼の言葉では、「おりふしに、ひょっと一切事は不生で整ふものを、今まで得知らいで、さてさて無駄骨を折ったことかなと思ひ居たで、ようようと従前の非を知ってござるわいの」ということになる。この「不生の悟り」がどのように彼の実人生に展開され、それが世人の救済にどう繋がって行ったかは、その後の歴史を見てゆかねば分からない。(さて、0時00分となり、一日終わったので、私はここで指を止めます。背中が痛い。腰も痛い。限界です。)


10.傷心のカズコと
                                       於天神930511/0621
 平凡社の日本地図をいくら見ても、兵庫県網干のあたりに浜田という地名が見当たらない。私が龍門寺を訪れたときは40代の半ばを過ぎていた。たしか、カズコという早稲田を出たばかりの娘を連れての行乞の旅の途中だった。雨が降っていたような気がする。私鉄の網干駅でタクシ−を拾ったから、傘がなくて歩けなかったのだろう。意識のサ−チライトを20年前のあの場所に向けると、記憶の薄明のなかから、あのいつもヒステリックに前髪を引っつめにして後ろでゴム紐で束ねていた22歳の彼女の顔が浮かんでくる。
 安保闘争で東京の諸大学が荒れていたころだ。活動家の恋人に貢ぐために喫茶店で働いていたカズコは、男に捨てられる憂き目に逢って、伊賀の春日山にあった山岸会の「一体生活の村」に傷心の身を運んだ。あそこには1週間の特講(=特別講習研鑚会)というものが開かれており、そこで坐り詰めの話し合い(食事は会の人が運んでくれる)に参加すると、心境が開け、「無所有」の悟りに達するというので、安保崩れの学生たちや職場を首になった左翼のサラリ−マンたちが流れこんで、トッコウは盛況を極めていた。
 私は浜松の神田町110番地の新築貸家に時の妻・オリコ(2番目の結婚)とその子たちと暮らしていたが、一升酒が始まってからの2年目で、私は夜な夜な浜松の歓楽街に出没して、放蕩の限りを尽くしていた。出費でパ−ソナル・チェックはとうに赤字になっていた。てんとう虫カ−ドも使いこみで、私は告訴を覚悟していた。その前は千葉県我孫子に住んでおり、まじめに数年間タイプライタ−を叩いて新日鉄の翻訳仕事をやっていて、生活に困ったことはなかった。ヒッピ−が世界中を歩き回っていたころで、私の家にもバンコックから日本に着いたばかりの金髪のデンマ−ク青年が居候として住みこんでいた。そのガイジンにオリコが惚れたことが離婚の原因になったが、それは別の話。

 前夜は机上のアラ−ム時計で1時の音を聞いたまでは覚えているから、午前2時にならぬうちに眠りに就いたらしい。6時には目を覚ましていて、「一切事は不生の仏心でととのう」という盤珪の言葉を反芻していた。顔を洗いながら、今朝はそのことから書き出そうと思っていたのに、このパナソニックのワ−プロの前に坐ったら、たちまち別のことを書き出していた。人間の潜在意識はどうなっているのか。地下水のように幾層もの流れがあって、そのうちどこの層から水が吹き上げてくるかは予想がつかない。
 何度も在庫調べをした記憶倉庫から、何人かの人間群像が浮かび上がる。苦悩と甘美が交錯して、思い出すたびに新しいカクテ−ルを作り出す。過去は死体のようなものではあるが、蘇えるとたちまち色や形や音を具えて動き回る。だから、老人が昔語りを始めると、あのように生き生きと表情が輝いて、雄弁に物語るのである。そして、若い者はその追想体験について行けないので当惑し、老人の回顧談に傾聴するふりをしながら、早くその場から逃げ出す算段をしている。いつの世にもあるこの光景を、私もいつしか老人側に回って演じているのだろうか。
 盤珪が喀血しながらの必死のあがきを、あの穏やかな声音で大衆に語り出すとき、一同はどういう表情で彼の顔を見上げていたのだろう。誰もその席を立とうとはしない。庭先で鳴くウグイスの音を聞くともなしに聞いていると、和尚は言う。「ほれ、皆の衆、こうやって身どもの話を聞いているうちにも、ウグイスの声が、聞こうともせずに、じねん(自然)に聞こえて、あれがウグイス、これがスズメと聞き分けができる。何と不可思議、霊妙な不生の仏心の働きではござらぬか。」みな、なるほどと合点して、ますますこの大和尚の法話に聞き惚れる。退屈はなく、皆が楽しげである。血を吐いての凄まじい苦行の追憶談も盤珪の口から聞くと、すこしも恐ろしい痛ましい話に聞こえず、一座の者は法悦に酔い痴れたようである。
 私の話はそのような具合に行くだろうか。失恋傷心のはたちそこそこの娘を伴として、街から街、村から村への乞食行。毎夜の宿は定めなく、安布団にくるまって、四十男は娘をいたわり、その裸体をひしと抱きしめて眠りに落ちる。カズコに持たせた「沈黙告げ札」は、洋品店からもらったYシャツの白い箱を切り取って作ったものだった。黒のマジックペンで次のように、彼女の稚拙な筆跡で書かせた。

    わたしは親不孝な女です
    両親のもとに帰れるまでこうやって全国無銭旅行をしています
    お志で応援してくだされば嬉しいと思います  東京・カズコ

 私は30代(昭和も30年代)に一人で数年間、間欠的に各地を托鉢したことがあるが、その頃は縁故をたどっての乞食で、後年の無差別門付けや路傍立ち乞食の方法は次第に開発されて行ったものである。カズコとの旅では、私はすでに自分では金銭に手を触れることはなく、托鉢者(ZA者と私は呼んでいたが)の指導に集中していた。
 私はカズコに教えた。「これは常識でいう乞食ではないよ。傷夷軍人が義足を投げ出してラバウル小唄を歌って銭を集めるのは、やはり人々の同情心に訴えているのだ。通行人のなかにはその坐り乞食とおない年の息子を戦争で喪ったお婆さんもいるだろう。さまざまの思いで、敗戦国の元・兵隊に金を恵む。競輪で儲けて懐のあたたかい酔っぱらいもいるだろう。さまざまだ。しかし、カズコ、君は哀願してはいけない。ただ、自分のそのままをさらけ出すだけでいい。相手の目をしっかり見るのだよ。悪びれることは何もないのだから。ペチャペチャしゃべらぬほうがいい。目は口ほどに物を言うものだ。聞かれたら、メモで簡単に答えなさい。メモは向こうが持って行って、あとで見直していろいろ考える材料になる。君は両親に背いて、あの男に青春を捧げた。そして捨てられ、今は親元に帰るきっかけを失っている。君がいったん親に抱いた軽蔑や憎悪はすぐに消えるものではない。今は私が君の先生であり、愛人だ。そのうち、君の心の傷も癒えて、晴れやかにパパ・ママと対面ができるようになるよ。」
 ZA(財上げ)思想はこのようにして開花した。「志」は哀願でむしり取るものではない。目には見えない神仏というものがあって、どんな方法でも君を生かしてくれるものだよと説いた。カズコの若い女体に指一本ふれなかったら、私は聖者であったろう。しかし、私も妻をデンマ−クの美青年に寝取られたという嘆きを抱く中年男だった。傷つき合ったものが寄り添う姿であった。公衆とカズコのあいだには、さまざまの問答があった。
 「あなた、唖なの?」「いいえ、沈黙の修行をしているのです。」
 「どうしてお父さんお母さんから離れたの?」「私が男に夢中になったからです。」
 「今晩、泊まるところあるのかね?」「神さま次第です。」
 「どうだ、俺のアパ−トに泊まらないか?」「いいえ、先生と旅をしていますから。」  その他、数え切れぬほどの問答があったはずだ。
盤珪不生禅