カズコと北九州に流れて行ったとき、「怪しい二人連れが金を集めている」という110番通報があって、土地の警察の者が朝の駅で私たちに職務訊問をしたことがある。
 「あんたはお酒を飲むのかい?」「ハイ。」ポリス「じゃあ、そのカズコさんが集めた金で宿に入り、お酒を飲んで二人で寝るわけか?」「そうです。」P「羨ましいのう。俺もやってみたいようなもんじゃ。」笑って別れた。アゴ付き、酒付き、オンナ付きで行く手定めぬ放浪の旅という想いは、公務員の彼のハ−トをくすぐったのだろう。
 山陰の益田ではヤクザ二人に絡まれた。私はオンナを操る世間師ということにされ、薄暗いバ−に連れこまれ、所持品検査をされた。やりたいようにやらせ、言いたいように言わせてから、やにわに大喝した。「貴様らに分かるか! このドブネズミどもめ!」二人は脅えて態度を改め、私たちに知り合いの宿を世話し、翌朝は早く来て餞別の金を置いてから、「先生たち、頑張ってくださいよ」と励ました。あれも奇妙な形だったが、一つの人生修行だった。
 私はカズコに、「10円上がっても、一万円上がっても、同じ心で受けるのだよ」と教えた。盤珪は商人がいくら高値を吹きかけてきても、言い値で買い、値切ることは一度もなかったという。


11.ぬかるみの決闘

 今日は郵便で、あてにしている医学論文の翻訳依頼が来ないかなと思っている。私の翻訳料は原稿用紙1枚が英和なら2000円、和英なら3000円の安値。東京ならこの2倍を請求する業者もざら。だが、天恩われに幸いして、頭の回転が早く、一日20枚は楽である。日収は4〜5万円。ただし、仕事がなければゼロだ。
 ZA托鉢行脚では、不思議に貯金はできなかった。宿に入って諸払いをすませると、財布はいつもカラになった。翌朝のバス代からもうZAが必要になる。朝飯はいつ食べられるか分からない。あまり、腹が減ると、「ねえ、カズコ。先にめしを食うか。私は朝酒でもやって時間を稼ぐから、君だけ先にご飯を済ましてZAに出てくれよ。」「はい、いいです。」お銚子で2本やるくらいの時間で、カズコは二人の飲食代プラス駅までのバス代くらいは上げてくる。駅に着いたら、今度は繁華街での托鉢だ。二つ三つ先の駅くらいの切符はすぐに買える。そうやってノロノロ旅を続けていた。一日に10キロも進めないという時もあったし、たまには急行に乗って隣の県に飛び込むこともあった。
 彼女との馴れそめは、山岸会特講の、今でいうマインド・コントロ−ルの場であった。私は過去に何度も「山」に足を運んでいたから、会の幹部からは先生扱いにされ、総務室で焼酎を朝から飲んでゴロゴロしていたが、総務が「光乃宮さま、きょうはトッコウに出てくれませんか」と言った。(当時の私は明治天皇みたいな髭を生やして、宮様を自称していた。会の幹部も面白がって、オレは泥乃宮だ、ワシは棒乃宮にするとか、はしゃいでいた。)トッコウに出て、係りの席に坐ったら、真っ正面にミニスカ−トが転がっている。パンツ丸見えだった。何かと思ったら、それがカズコ。絶望して、どうでもよくなっていたオンナの姿だった。可哀相だと思った。一通り終わって休憩になり、私が総務室に戻ってお茶を飲んでいたら、トイレに行くのか、パタパタと廊下を走るカズコの姿が見えた。 「どうだい、お菓子でも食べに来ないかい。」
 小用をすませてから、彼女は嬉しそうに部屋に入ってきた。それからあと、彼女はいつも私のそばに引っ付いて暮らすようになった。トッコウが終わってからの彼女は、そのまま「一体村」に住み着くことになり、カマボコ兵舎のような宿舎内に割り当てられた私の4畳半に同居するようになった。
 フラリと浜松の神田町110番地(あそこも警察といろいろ関わりがあり、番地までそのものズバリだった)の家を出て、そのまま三重県の山奥に潜ってしまったので、ある日ふと総務にその話をしたら、「先生、会のトラックと若い者を何人か提供しますから、奥さんも子供もみんなこちらに引っ越ししたらよろし」という。「かまどの灰までこそげて持って来ます」という若い衆に全てを任せたら、金も払っていない試用中のヤマハの電子ピアノまで持ってきてしまった。
 妻・オリコ(当時29歳)は子供を3人連れてやってきた。その一人はまだ乳飲み子。私は北欧エリック青年不倫事件から、彼女には「いずれ離婚する」と言い渡してあったので、オリコはカズコと私の仲を見てもうろたえなかったが、やはり密かに野原に出て、早春の小さい白い野花を摘んで涙をこぼしていたということを、あとで聞いた。哀れな話であるが、私は加害者に終始した。処罰と思っていたのである。まあ、仏教で言えば地獄界の姿であったろう。
                    
 何か月か、私とカズコの二人旅は続いた。出雲大社から高松、さらに土佐までも流れた。いつ終わるとも知らぬ旅であった。オリコは画策して、琵琶湖のほとりに一軒の借家を見つけた。山岸会は住みにくくなっていたからである。そのきっかけは私が作った。土地のゴロツキのような男が土建会社を建て、ヤマギシカイから只の労力を提供させていたのだ。会の幹部は堕落しており、お礼に紀州白浜で女と酒をあてがわれて悦に入っていた。当時のダラ幹たちはおおかた酒色で身体をこわし、早死にしているから、これを書いても誰にも迷惑はかかるまい。その土建屋と総務がくだらぬことで或る日火燵を挟んで口喧嘩をしていた。二人のあいだに坐っていた私がたまりかねて、身につけていた大東流合気術(植芝合気の源流)の一手を使って、片手の甲で一人づつ目のあたりに打ちを入れたら、二人はたまらずのけ反りに飛び、乱暴な仲裁はすんだ。すると、土建屋が私に恨みを抱き、ある雨の午後、私に決闘を申し込んだ。
 (血なまぐさい話になろうとしたら、福岡から水茎の跡も美しい書状到来。私の「神人サッチャ・サイ・ババの横顔」の本代として、3万の贈金あり。愉美子は明日が期限の高校2児の納入金にピタリと喜んでいる。彼女は朝からサイババのバジャンを練習していた。バジャンは印度の讃美歌。)
 私は果たし合いを受けたが、相手はロ−プ術の達人らしく、私の足をからめて引いたので、私はぬかるみに横倒しになり、たまたま妊娠していた大きいおなかのオリコが私の上に身を投げて「やめてえっ!」と絶叫し、カズコは土建屋の両手に飛びついて仲裁。あとは仲直りとなり、養鶏で有名な山岸会のことゆえ、そこらのニワトリを刺身にして、焼酎で手打ち式を行なった。その後、私はカズコと旅に出た。


12.禅譲成らず

 盤珪の話が中絶して申しわけないが、こちらのほうの気が済まないので、もうすこしカズコのことを話す。とにかく、豊後の或る牧師の家にわらじを脱いでいた私とカズコのところに、琵琶湖のほとりの栗東インタ−チェンジのそばに家が見つかったから帰ったらどうですかというオリコの手紙が来た。別府の港から瀬戸内海を渡って大阪へ、そこから近江に入った。栗東の家に収まってから、私は正妻の座の禅譲を促した。(この禅は仏教とは関係なく、古代シナの帝王が天をまつる儀式のことで、その天子の特権を譲ることが禅譲。自分の子孫にでなく、徳の高い人に天子の位をゆずったのである。帝尭が帝舜に、帝舜が夏の禹に譲ったようなもの。その逆は放伐[放逐・征伐]で、これは武力革命である。)オリコは市役所から離婚届と結婚届の紙をもらってきた。女二人で話し合っていたようだが、なかなかまとまらぬ。それには事情があった。
盤珪不生禅