盤珪不生禅
21.MA

 仏教ひとつ取り上げても、それをすみずみまで研究したらとても一生や二生では終わらない。ヒンドゥ−教もイスラム教もキリスト教その他も同じこと。研究という頭脳作業と、それに伴う霊的修行は、もう充分以上にやったので、この先、何もやりたくない。今は各宗教の最終完成点である神人合一や仏我一如だけを欲する。それもまた欲望の一つだ、捨てなさいとは言ってもらいたくない。欲望も宇宙大になれば、浄・不浄の差別も消えるだろう。そして、この欲望が達成されれば、大中小のあらゆる欲望は雲散霧消するに決まっている。
 そこまでの道程というのが、つくづくシンドイ。大分弁でヨダキイ。努力や修行を条件として課せられるのがたまらない。この点で、盤珪は大きな救いになる。彼自身は、尻の皮が破れて出血し、そこが膿み爛れるほどの苦行をしたが、同じことをやれとは誰にも言わなかった。サイババも、修行ができない人は「神の愛」一つあればそれでいいと言っている。神の愛というものはよくわからない。神が不明だからだ。神をどのように愛したらいいのか、などということはますます分からない。神が私を愛しているということになると、薄々わかる。確証がないから、はっきりしない。それでも、こうやって呼吸をして、ワ−プロを叩いている自分がここにいることは分かる。生きているということは解る。自分で生きようと思って生きているのではないから、やはり生かされているのだろう。何に生かされているかというと、ほかに言葉がないから、「神に」というしかない。「大自然」でもいい、「宇宙原理」と言ってもいい。とにかく、私にはさっぱり分からないものがここにある。「それ」は私に敵意を持ち、私を苦しめようとしているのか。私を絶望に落とし苦労させて喜んでいる意地悪な存在か。どうも、そうは思えない。だから「愛の神」というものを信じたい。いや、何%か知らないが、すでに愛しているようである。
 「神の愛」一つあればいいというのは、人間に無理やり神への愛を強制するということではあるまい。人間が強制を嫌うようにできていることは、「造物主」である神はとっくにご存じのはずだ。大体が、愛と強制は正反対である。人間に無限の愛などがあるはずはないから、愛の純粋なものは神にしかない。私には「神を完全に愛する能力」などは全くない。それは神の仕事だ。神の愛を受けることはできる。それだけだ。
 私がウツであろうとなかろうと、神は、生命は存在する。
 今、中学校から電話が入った。この家では次男の音仁が、学校でボ−ルに当たって目をやられ病院に行ったという話である。いわゆる不幸。子供の事故は親の心得違いが原因だと、ある宗教は説く。私が不倫・破戒の人間だから、いよいよ神罰・仏罰がやってきたんだなと、宗教的人間は思う。原因あれば結果ありと因果(カルマ)を説く。インド系の宗教はみなそうだ。ほかの宗教でも、罪と罰の考えは世界中に行きわたっている。本人の罪とか先祖の罪とかいろいろである。そこにダルマ(道徳、正義)の思想が出てくる。カルマとダルマとノルマのこの三つの「マ」は私を限りなく苦しめる。だから、この「マ」についてはあまり考えないことにしている。私には正に「魔」である。
 梵語でMAというと、自我の意味だという。自我のことも考えるとキリがない。これも私を苦しめる「魔」である。山岸会でも盛んに「我執」を説いていた。無我執であれば幸福一色の一体生活ができると言う。財布一つを会計係が預かって、他の人々は金を持たなくていいという苦労なしの「一体村」が日本中あちこちにある。総意によって一体社会のなかでは禁酒禁煙だ。私には合わない。「ぬかるみの決闘」以来、私は山岸会にはあまり立ち入っていない。古い友達に会いにゆくことはある。あの会もずいぶん裕福になった。私がいたころとは天地雲泥の差だ。若い人たちのなかに脱落者がいるとは聞いた。


22.微醺

 中学校の保健の先生が、病院から2年生の音仁を連れてきてくれた。左の目に野球のボ−ルが直撃し、黒目の周囲が出血したという。目をつぶって先生にすがって歩いてきたが、また目を動かすようになって二度目の出血をすると危ないという。布団に寝かせた。あすは母親が連れて隣町の病院行きとなる。この3000人の村には診療所があるだけだから。 続いて福岡市から、オウム真理教の人が電話をよこした。麻原彰晃教祖も来るから、5月18日の霊性音楽会に来ないかと勧める。カネがないからJRに乗れませんよと答えたら、大分市の信者に頼んで車で運んであげると言う。もう2ヵ月間も外出していないから、行ってもいいという気を起こした。禁酒はいいが、禁煙の会だから多少面倒だが、出かけることにした。ウツが治っていればいい。何でも、モスクワのオ−ケストラが麻原氏と組んで音楽を作ったらしい。オウム真理教もインド系だ。麻原氏には特に魅力はないが、真面目なところは認めている。自分の癌を治したという話も聞いたことがある。その誘ってくれた婦人が私に会いたいという。どうして私のことを知っているのだろう。これも何かの縁だと思うから動くか。酒・煙草・女に耽ると地獄に落ちるとこの会の人は信じている。窮屈だ。
 愉美子はまだ帰っていないが、愛児の奇禍には驚くことだろう。サイババの聖なる灰・ビブチを目に塗るようにさせるつもりだ。現代の甘露ともいうべきアムルティもある。アムルティの話はサイババ・シリ−ズのあちこちに書いた。
 ウツ的徐行運転だが筆指は進んでいる。ビ−ルを多少楽しみにしている。テレビ。番組を見ても、相変わらずあまり魅かれない。ダ−ティ−ハリ−2、はぐれ刑事純情派、江戸城無血開城。ソウなら喜んで見るのだが。愉美子が帰ってきた。息子の怪我ではそれほどショックではないようだ。「いろいろ起こるものね」と、なぜか笑っていた。バドワイザ−355CCがお土産。最初の一杯、うまい。禁酒でも断酒でもない。ちょっと飲んでみたくなっただけ。宗教はどこでも飲まないね。飲むのは神道とキリスト教くらいのものか。 問題意識があまりない。あれこれ問題を作るのに飽きてしまったようだ。それじゃ阿呆のようなものだと、誰かが言った。盤珪は如来もアホウだと言い放った。アメリカビ−ル355は瞬く間になくなってしまった。355÷180=1.9722222合か。2合足らずのビ−ルで、私は充分。素直に酔っぱらっている。中学の担任の先生が来て、玄関で愉美子と話をしている。愉美子は笑っている。日本女の愛嬌か。アメリカ・ママなら噛みつくかもしれない。野球を全廃しなさい。犯人は誰なの。人間ピラミッドで押しつぶされて死んだ子供もあった。県は何億万円出しなさいと裁判長。あちこちで「神芝居」。そのうち私の葬式も出て、泣いたり笑う人もいるだろう。なるべく笑ってもらいたい。うちはオウム真理教ですからお通夜のお酒は出しません、てのは世間の恨みを買うだろうな。酔っても私のウツの所在は解る。飲んでも何も変わらない。飲んだら飲んだまま。酔えば酔ったまま、しらふならシラフのまま。なんと便利な教えだろう。