盤珪不生禅
 ウツはウツのまま、不幸は不幸のまま、苦は苦のまま。ほかに子細はござなく候。
 ソノママ禅だと、白隠は攻撃した。「夜船閑話」は昔チラリと見たことがある。越後から信濃への旅で彼が修行した寺に参ったこともある。正受老人のことも聞いた。駿河の故郷のお寺にも行った。盤珪と同じく、妙心寺に住したこともある。1685〜1768の83歳示寂。
 本当にビ−ルは2合でいいのだ。これを越えれば、私は寝てしまうだけだろう。清酒換算一升時代には暴れておったから、アルコ−ルは活動に燃え切った。内臓をそこなうこともなかった。そのかわり、周囲の人間を害した。やみなむ、やみなむ!
 ウツは消えぬ。厳然としている。そのシャッ面をしっかり見てやりたいが、見えぬ。見えぬなら見えぬまま。脱肛がまたゆるんできた。23.谷まって

 屋上に屋を架するようなもので、他人の考えの上に自分の考えを乗せる。無駄だ。
 その無駄を皆がわれもわれもとやっている。屋根の二枚張りはやめて、別の敷地に新築をしたほうがいいのだ。すると独創的だともてはやされる。ある宗教、ある思想傾向に属すると、どうしても二枚屋根となる。属さないほうがいい。いつもあらゆるものから手を離していたほうがいい。そうしないと自由が利かない。学んだら、その学んだものを全部忘れるがいい。生まれ変わるときはいつもそれをやってきたはずなのだが、「傾向」というものがどうしても付きまとう。それぞれの魂の「体臭」みたいなものが残る。アヴァタル(神の化身)には、そのような傾向が皆無だと言われる。転生の動機・原因が地上の執着や欲望と関係がないからだという。

 930513/1028。ウツの雲が出てから三日目。9〜10時間は眠ったが、好転の兆なく、抑圧が強く精神の自由がきかない。一歩たりとも進めないとは思いながら、筆指の動きに任せている。意識は覚めており眠気もないのに、想念が浮かばない。止水といえば止水だが、水が澱んでいる。明鏡はあるとも思えない。車が走ればその音が聞こえる。それだけのこと。物憂い。目を打たれた音仁は母とともに病院へ。5歳の日女はまだ寝ている。家の中は静か。眠れないのは知っているのだが、眠りのなかに入りたい。典型的なウツである。

 930518/0542。そして、最後に谷(きわ)まって、私は次のペ−ジに出てくるような「愉美子への手紙」を書いて寝てしまったのが昨夜。今朝5時すぎに不思議な夢を見た。その内容は豊かすぎて、ここには書けない。結果として、いろいろ新しい思想展開と行動は当然起こる。その一つは、私は盤珪禅師の不生禅を紹介することだけのために生まれて来たのではないということ。羊頭狗肉(ヨウトウクニク)という言葉があるが、あれはヒツジの頭を店先に出して、なかではイヌの肉を売るということだったが、狗頭羊肉ならいいではないか。ただし、イヌの頭を店先に出しておいたら、客は誰も入ろうとしないかもしれない。いや、それでいい。私は大体、初めから何かを売りつけようとはしていないのだから。
 今夜7時からのアサハラ・ショ−コ−の音楽会にも、迎えの車が来れば行ってもいいと思っている。小遣い銭がなくては大変よ、と愉美子が言っていた。なら、新しいサラ金からサラに30万円を借りてこようではないか。それで合計100万の借金を積み上げることになるが、毒食わばサラまで、仕方がないではないか。
 盤珪禅師に食いついていても、人生上の解決は何も来ない。そういった道は私にそぐわない。私は標題に構わず、ますます脱線して行こう。生きている本はこういうものだということを世に示そう。
 人生上の悲劇がこの家に来るかもしれない。その顔をよくよく見てやろう。そして、それに負けてしまわない自分を発見しよう。
 今日も雨。ウグイスが鳴いている。ウツからの脱出は成るだろうか。一々見極めていこう。
 とりあえず、昨夜の極まった状態に戻ろう。
 次はその手紙である。

愉美子に!
                      於天神930517/2348
 今のウツは永遠に治らない気がする。単なる気分ではなく、現実とつながっている気がするのだ。今の現実を処理する力が自分にない。信仰を保てなくなっている。証拠が出るのをひたすら待っていたが、それは出ない。神とサイに対する信頼がなくなっている。子供たちは何も知らされていないので、ただ笑いさんざめいている。学校にもゆけない時期が迫っていると知ったら、みなも私のように元気を失ってしまうだろう。私が死んでいなくなったとしたら、君たちはどうやって生きてゆくのだろう。現実は私が存在しないのと同じなのだ。借金をギリギリまで借りてそれを返すあてもないとなったら、どうするのだろう。私たちは訴追されて全財産を人手に渡してどこかに歩いてゆくのか。脱肛で歩きにくい私も歩いてゆかねばならない。もう真夜中だ。いずれこの家も寝静まり、また私一人が起きていることになるのだろう。OMを唱えることもできず、祈りもできない私。神を見失った人間ほどみじめなものはない。そういう私がいる。これがすべてウツのせいだったら、どんなにか嬉しいだろう。しかし、これはただのウツだとは思えない。私たちは救いのない貧苦に迫られているのだ。私は無理にでも自分を眠らせなくてはならない。苦し紛れにマントラを唱え、神の名を呼ぶかもしれない。それができれば幸せだ。呼べども答えぬ神であっても、呼ぶしか手がないからだ。自殺をするよりはましだと思う。
                    
 署名もなしに、途中で切れている。この章もこれで切ろう。


24.狂疾
                      於天神930518/0621
 あの夢で私は鼓舞されたのだが、現在意識に戻ってきて、この現実の運転が新しくできるだろうか。まだ分からない。身体がウツから抜けているかどうかが、まだ不明である。もう一度寝たら、あの夢に戻れるだろうか。
 しかし、やはり夢は夢にしかすぎなかった。私は相変わらず現実処理ができない。子供たちが慌ただしく学校に出かける音を聞いていた。小3の和平はのどが痛いと登校拒否。なぜか明るいはしゃいだ愉美子の声。私が捕らえられている悲観的現実が、どうしてあの母子の意識に入っていないのか。私には執筆と表現の意欲がない。

 0525/1713と、1週間以上たっている。和平の登校拒否今日も。今、担任教師、玄関にて愉美子と話をしている。和平は頭が痛いと布団のなかに逃げている。私は朝より過飲、頭痛。そして、ウツ、失業。物の書ける状態ではない。しばらく待つ。