昨夜、愉美子は言った。「素子さんからお金借りられないかしら?」もちろん、NOと私は答えたが、オンナの直感。しかし、今は愉美子、妻の座にいないから(本人のヒステリ−で役場に離婚届けを昨年夏に出したから)、その座を犯したからとか言ってキョ−カツを働くわけにはいかない。前に1回、そのケ−スはあったが、私としてはツマランことだと思う。
 8)福島一雄君。この本の弾みをつけてくれた緑が丘小学校の旧友。彼に昨日、素子その他の情報を送り、「この盤珪本完成のため、資金援助たのむ」と書き添えた。ほれ、ここで私の乞食根性が立派によみがえった。無限に資金援助するような人間はどこにもいないが、彼も男、それなりにベストを尽くしてくれると思うが、まさか緑が丘小学校卒業生全部に檄(激しくなく木ヘン)を飛ばし、第1回卒業生の代表として「辞」を述べたジュ−ビッチャンが狂って食い詰めて困っているから、一人100円がとこ、清川村に送ってくれというレタ−を彼は出すまい。私はそれでもいいのだ。恥はかくも掻かないもないのだから。
 9)要するに、人間の娑婆ぐらしにカネが要る。そのためには、強盗も詐欺も政治も発明も乞食も印税も高利貸しもキリスト教伝道もお寺さん戒名料金も、手段としてはまったく同じであり、法律としてはそれが犯罪にならぬよう取り締まるだけであって、当事者の心事まではタッチできない。
 10)盤珪に戻るが、私としては盤珪が大好きだし、できれば気の合った一雄君と同道で、盤珪禅師ゆかりのすべての場所を経めぐり、その写真も撮り、道中彼と深い話をし、私の考え違いや不足点を一雄兄からズバズバ指摘してもらい、すごく臨場的であり、かつ現代人の心肝に迫る凄い本を書きたいのである。幸いにして、一雄兄は功成り名遂げた人物。私はキョウシツにより、教室では1番か3番だったが、カネとオンナとカミホトケに全部落第して、田舎の生活保護の対象にもならないという哀れな姿であります。番号は10となり、5本の指が右ひだり揃ったところで、自今の方針を定め、この一文書(=4頁)は明治38年生まれの私の生母・敏子と、この書物のSTARTER(起動者)である福島一雄氏に送ることにした。実はまだ45−18=27行かけますが、そんな残り物を書いていると、これをプリントして、以上のお二人に送ることを忘れますので、やはりここまでにします。また、リンと言う名の不倫男の処理上、困ることがありましたら、一雄兄、どうか次にご連絡またはお問い合せおねがいします。(この人からは後日絶交された。次に母の名前と住所を書いたが、母は930824に逝去したので、ここは削除した。享年87歳であった。私の参列はトラブルのもとであるので、私は葬儀に行かなかった。父の葬式の時も私は托鉢乞食中で参列したなかった。母は14年遅れて父を追った。−後記) 不生にて一切事が整いまするか、それを私は生体実験でやっているのです。

 よくよく見れば、あと10行。時刻も6:27a.m.今朝はこのオヤジも元気がイイケン、ワヘイの奴、もしまたもや登校拒否したら、ぶっとばして、鼻血タラララで、儂が肩に引っ担いで、教室(2階)に投げこんで、同級生の度肝を抜き、先生に要らざるご心労をかけ、この登校拒否という汎ジャパン的な問題の根源的解決を招来するべく、無理して、かつ喜んで新聞ダネになるよう行動します。以上、旧友カズオ&調布の母にワ−プロ文にて申し述べます。(これを医者が、あるいは巨大怪獣イシカイが、精神病学上の躁鬱症の爽期に患者が入ったと診断するわけです。)
 あと、4行残っていますので、やはり母上に合わせて腰折れでない一首と、福島一雄畏友のご審判のために、平仄無視の漢詩一行のみを。

    かにかくにわづらはしきとおもひなばなれがこみやをかるることなし

   往来不断生死間 毛兄既在黄泉宿 幸待群衆脱苦難 不生不滅道者頑


26.法眼円明
                                       於天神930527/0924
 本書執筆の3日目に、「気」が曇りだして凡そ2週間経ってから、やっと元の清明の気が戻ったので、岩波文庫の「盤珪禅師語録」をまた広げている。引用の際には原ペ−ジ数を記入するつもりと、冒頭に書いたがとうとう出来なかったところが多い。
 今、岩波本のP118を見ている。ここは漢文調なので読みにくいかとも思うが、少し引用する。漢字はなるべく仮名に書き改めた。
また或るとき曰く、身ども26歳のとき、播州赤穂野中村にて庵居のとき、発明せし道理、また道者に相見し証明を得しときと今日と、その道理においては、初中後一毫ばかりも差(たが)ふことなし。しかれども、法眼円明にて、大法に通達し、大自在を得たることは、道者に逢ひしときと今日とは天地懸隔なり。汝らかくのごとき事のあることを信用して、法眼成就の日を期すべし。問うて曰く、「法眼円明は時節あって成就するや。」答へて曰く、「時節あるにあらず。ただ道眼明白にして、一点のかけめなきとき、成就するなり。余念なく一片長養の功にて成就するなり。」
 法眼円明はホウゲンエンミョウと読むのかもしれない。お経を読むときに普通用いる呉音であれば。この法眼は下から2行目に「道眼」と出ているのと同じである。「ありのままに、そのままに、深く真実を見抜く眼」とでも言ったらよかろうか。
 26歳に「発明」してから、一毫(一筋の毛)も違いがないと言い切っている。途中に改良や改善がなかったのである。これは前に紹介した和歌の「悟りては悟り路をゆく...」と一致している。では進歩はなかったかというと、「大自在」を得たという点では天地のへだたりがあると言い切っている。
 道者というのはシナの明から渡ってきた禅僧で、盤珪は長崎まで旅をして道者禅師に会い、印可を得ている。 「初めも中も後も」微塵の差別もない「道理」も、その活用の点において天地の差を生ずるというところ、まことに味わいが深い。当然、弟子としては「和尚の今のようになるには、やはり時間が必要ですか」と尋ねた。このとき、盤珪は物理時間の経過を否定した。今でもいつでもいいのだ。 「道眼明白」になったその時が「成就」だと言っただけである。そのための修行としては「余念なく」脇目も振らず、「脇かせぎをせず」進むしかないと親切に教えている。 「一片」はひとひら・一つのかけらだが、ふと気がついた「道理」すなわち不生の仏心のことである。それを長く養うのだ。禅宗では「悟後の長養」ということをよく言う。よく養って発酵させると葡萄酒も高級になるようなものだ。
 「常住、仏心で居よ」と示した盤珪は、次のようにも言っている。
事事物物、縁に随ひ運に任せて、七通八達す。ただ、悪しきことは為さず、善きことはなす。しかれども、善根に誇り貪著し、悪しきことを憎み嫌へば仏心にそむくなり。仏心は善にもをらず、悪にもをらじ、善悪を超えて、動き働くなり。これ仏心にあらずや。(岩波本、P100)
 この「ただ悪しきことはなさず」が私にはむずかしい。これが自然に出来たら、どんなにかよいだろうと思う。私の多くの読者は「そんなこと簡単なのにねえ」と訝しく思うだろう。「善根」というその根が、私には薄いか浅いのだろうと思うばかりである。学生時代に東横線自由が丘の駅員に追いかけられて、必死で逃げたことがある。「東大生ともあろうものが」と油を絞られるのが怖かったからだ。煙管(きせる)の発覚である。
盤珪不生禅