あとさきは前後である。道元は「前後際断」という言葉を残してくれた。
 一般では、「前後も知らず」というと「正体がないさま、前後不覚」の意味であり、少しもよいこととされていない。「際」は国際のサイであるが、「壁と壁がこすり合うように、すれすれに接すること」だと辞書は教えてくれる。前はたとえば未来、後はたとえば過去。そのあいだのスレスレのところに「今」がある。それも断ち切ってしまえば、今すらもなくなるではないか。万物から手を放して、虚空に浮かぶ心持ちである。盤珪の歌にもその心境が出ている。これも前に紹介したかもしれない。

       我はただ 虚空を家と住みなして 須弥を枕に 独り寝の春


29.坊ちゃんと坊ちゃん

 昭和29年ごろ(また章の番号と一致)、20代終わりの私は大学を出て最初の就職先であった都立足立高校をやめて、母校武蔵の中学部の英語教師をしていた。根津財団が建てた名門校に移りたかったこともあるし、母校の懐かしさもあったが、一番の原因は足立高校の女教師との不倫(petting程度だったが)が生徒の噂となり、校長から叱られたことが弾みになったと思う。
 武蔵中学は男子校で、上流家庭の坊ちゃん揃いという印象だったが、足立区という徳川時代は穢多(エッタ)や非人の部落があった地区から見れば、練馬区豊玉という土地柄は遥かに高級だった。私は北千住から乗り換えて東武東上線で足立高校にかよっていたのだが、途中に小菅駅があり、手錠を嵌められた囚人がよく乗っていた。彼らの眼が澄んでいて、ほかの乗客より人相がいいのを見て、大変驚いたことがあった。罪を悔い改めると、こんなにも清々(すがすが)しい顔になるものかと、私はしげしげと彼らの顔を見ていた。一般乗客の顔のほうに、よほど犯罪者らしく見えるのが沢山いた。
 私は結婚をしており、子供も二人いた身だから、未婚の女教師との仲はやはり不倫である。武蔵就職のときはもちろんそんなことは告白しなかったが、まあ中学からやってみろということだったのだろう、高校教師の地位は無理だから、見習いとして中学をやれというご命令を受けた。元気いっぱいの坊ちゃんたちは面白かった。たしかに、教育は下ほど面白く、やり甲斐もあるということが分かった。のちに、日本大学を教えてそのことがますます明らかになったが、先生になるなら年齢は下ほどいい。私には経験がないが、保育園の先生が一番楽しいだろう。大学は最低だ。
 武蔵の生徒たちは天真爛漫で、ある子は授業の劈頭(ヘキトウ)、「先生、質問!」と立ち上がった。ハイと指さすと、こう言ったものだ。「先生、アクマって本当にいるものですか?」私は一瞬、耳を疑ったが、その子の表情がまじめだったのを見て、こちらもまじめに答えた。「悪魔、うん、いるよ。」中学二年生だったと思う。少年は満足して座った。
 そのクラスが、或る朝いやにガヤガヤしていたことがあった。私は訊いた。「どうしたんだね、ザワザワしているが?」みなが一斉に叫んだ。「早慶戦なんです!」ああそうかと思って、「このなかに、今、野球を見に行きたいという人はいるかね?」半数以上が手を上げた。私は決断した。「よし、行ってもいいよ。今日の英語は終わり。次の授業に間に合うように帰れよ。」少年たちは校門を飛び出して行った。もちろん、次の時間に間に合って帰る子はいなかった。これが職員会議の問題というより、校長の耳に届いた。それだけではまだ「首」にはならなかったが、もう一つ事件が起きた。それは昼休みの運動場の芝生の上で、ある子供に説教をしているあいだに、何気なくその生徒を殴りたくなって、「君を殴ってもいいか?」と訊いたのだ。その子はOKだったので、殴った。そのあとで、「殴られて気持ちよかった! 僕んちは、パパが僕を殴ったこと一度もないんです。それで前から殴られたかったんだ。」
 二人の間はそれでよかったし、それまで以上に師弟の間柄は深くなってきたのだが、あいにく、その「暴行」を遠くから見ていた生徒がいた。その子の告げ口で、これも上層部の知るところとなった。あとで知ったが、私が殴った子はPTA副会長の愛息だったのである。当時は現在以上にデモクラシ−が喧しい時代で、体罰は新聞ダネにすぐなったころだった。これでもう決定打だったが、もう一つ非常識なことを私はした。


30.常軌を逸した

 また盤珪の本から脱線を始めた。野球のために授業をやめてしまうような教師だった私だから、まあ勘弁してもらいたい。
 ウツの2週間でほったらかしにしてあった裏の畑に行って、空豆と莢豌豆を取ってきた。今年はサイババの本ばかり書いていて、トマト・キュウリの類いも植えなかったし、畑は雑草だらけ。こんなことは何年もついぞなかった。絶海の孤島・喜界島にいたときも、海釣りは子供の蛋白源確保のため。畑も薪で焚く五右衛門風呂の灰を沢山使って、精一杯野菜を自給していた。南海なので、スコ−ルは豊か、日光はふんだんで、オクラなど一晩でたまげるほどに成長した。内地の3倍も大きいのができた。カタツムリも巨大なのが庭にウジャウジャいたので、それを取って炒めて食べたりしていた。ああいう自然生活は二度と経験しないかもしれないが、釣りのためにいつも大空の雲行きを観ていたあの頃の生活は懐かしい。
 まだ私が30歳にもなっていなかった武蔵中学の教師時代は、わずか4ヵ月かそこらで終止符を打たれた。私は聖イエス会というキリスト教に凝っていて、キリストと神秘的合体したような体験をして、霊的探求に夢中だった。学校勤めもだいぶサボったような記憶がある。当時、すべての人間には天才の芽が眠っているという思想に熱中していて、「万人天才論」というテ−マで、豊島公会堂で講演会を開いたことがあった。その広告チラシを武蔵の生徒にばらまかせた。学校近くの駅でもビラまきをやらせたのだから、睨まれるのも当然だが、若さの無鉄砲で後先かまわずやっていた。そして、とうとう武蔵の学長をしていた宮本和吉という有名な哲学者のお部屋に私は連れてゆかれた。教頭先生は、私が武蔵高校の学生だったころ、私たちに老子を講義して下さった恩師だったが、生意気な学生の私は老子の解釈について先生を困らせたことがあり、それで一本取ったつもりが、その先生が私の首を切ることを決意され、学長室行きは言わばお別れの挨拶だったわけだ。 宮本先生は血気にはやった私に同情されたのか、「昔の学校と違って今はPTAその他いろいろ難しいことになっている。まあ、君は若いのだから、ここを辞めても天下は広い。がっかりせずに頑張ってもらいたい」というような餞けのお言葉を下さった。私は恭しく敬礼してその場を去った。
 この馘首(カクシュ)決定の前から、私は自由が丘から練馬まで通う時間と交通費を浮かすために、学校そばのラ−メン屋の二階に単身下宿していた。食べ物は節約して、コッペパンに大根の生かじりをやっていた。余った金は「万人天才論」の普及という「大義」に捧げていた。給料は家庭に入れなかったので、両親も妻子も困り果てていた。私はアメリカ留学のころ高収入(日本の会社の課長レベル)だったので、向こうで買ったタイプライタ−を持って帰国したのだったが、その機械を古道具屋に二束三文で売ったり、たしかにやることなすことが常軌を逸していた。武蔵を辞めてから、父親と論争があり、父を殴って柔道の袈裟固めにしたこともあり、一家は相談の上、私を精神病院に入れた。3ヵ月の監禁生活は骨身に応えた。


盤珪不生禅