朝の郵便で、ある国のある市のある人から思いがけぬ手紙が来た。(このことはすべて秘密にしてくれという本人の希望で、固有名詞ははずした。)私にサイババの講話集10冊ほどを訳してくれないかというお誘いであった。日本語に訳されているサイババ関係の書籍は非常に少ない。サイババ帰依者であるX氏は私財をなげうっても、弘法(グホウ)に尽くしたいというお気持ちである。私は4分の3失業のこの身を3ヵ月持ちこたえたおかげで、サイババについての本を4冊、それにこの盤珪禅師の紹介書をかくことができたのは、やはり有難いことである。6月から忙しくなるが、それまでにこの本を完成することができると思う。日本の古い言葉で「うんぷてんぷ」というのがある。漢字では「運否天賦」と書く。『大言海』には「運のよきとあしきとは天の定むるところなり」と説明されている。天賦は「天賦の才能」というように普通良い意味に用いられるが、「善悪総じてもて存知せざるなり」の境地に到れば、「事事物物は時の成り合い」で、全部が天からの「賦」(割り当て)となる。
 盤珪のような傑僧になれば、病気などにはならぬと思うかもしれないが、実は若いときの難行苦行が祟って、一生病身であった。しかし、病気などには頓着せず71年の生涯を過ごされた。あるとき、禅師の鼻血が数ヵ月止まらないことがあった。ほうぼうから妙薬が贈られ、なかには特にこれが効きますからこれを真っ先にお用いくださいと言う者もあったが、盤珪は「薬到来の次第をお尋ねあって」、効き目に構わず服用したということである。つまり、誰からどのような気持ちでという心のほうを大事にしたのである。
 ラジウムを発見したキュリ−夫人(1867〜1934)は、放射線の被爆で白血病になり、今の私と同歳の66歳で死去した。寿命こそ「うんぷてんぷ」の最たるものである。屈託なく毎日に最善を尽くしたいものである。
 臨終に備えて生きるということは若い人には縁遠いと思われるかもしれないが、盤珪の次の歌を覚えておいてもいいと思う。

     後世(ゴセ)のつとめもこの頃いやと出入りの息のあり次第



33.絶交は身から出た錆
                                       於天神930531/1336
 江戸時代の禅坊主の話などカンケイないという若い人も沢山いると思う。それでは20世紀の93年に大分県で生きていた或る男の話は?と訊くと、それもカンケイないと言う。では何がカンケイあるの?と尋ねると、面白いことさと言うだろう。何か面白い?と畳みかけると、そんなことは分からないとでも言うだろう。十人十色、百人百様であって、とてもそういう人の好みに合わせることはできるはずがない。しかし、私のような物書きはどうしても一種のサ−ビス業であるから、自分の興味や趣味を人に押しつけるわけにはいかない。盤珪なら盤珪に興味がある人だけこれを読めばいいのだというのは、仏教学者の立場であろう。私は学者でないから、それはできない。私は昔から、書いたものを通じて多くの人々と交わりたいという願いを持っていた。
 現に今朝も、見知らぬ佐賀県の女人(ニョニン)から電話があった。美しい声の人だった。関英男博士の本で私の「ピラミッド瞑想帽」の指導を受けたいということだった。私は一時、数学的にこの瞑想帽の作り方を発明し、そのピラミッドの霊的焦点が間脳に来るようにする技術を開発して、それを北海道の雑誌に発表した。それを紹介した関博士の本が出た当座は問い合わせが全国から来たので、要項をプリントして皆に差し上げていたが、そのころの家(三重町)からここ(清川村)に引っ越ししたとき、すべての資料をなくしてしまった。その数学的割り出し方はある級数を使うのだが、その発見は伊豆下田に住んでいたころ(15年前)、牧野元三と協力して成就したものだった。私は忘れっぽいので、女人の電話に「今それをやっていませんので、ごめんなさい」と答えたが、その声があまりに美しいので、またもや好きごころが動いて、「とにかく、葉書でいいですから、ご住所を教えてください」と答えた。(その後、音沙汰なし−−後記。)
 そのあとで、どうしようかと愉美子に質問したら、「東京に専門家がいらっしゃるではないですか」と次の人を思い出させてくれた。この瞑想帽に興味のあるかたは、以下にご連絡ください。
    入谷憲雄先生
    156 世田谷区大原1−10−2 電話03−3466−8287
私の名前は言わないほうがいい。例の私の無礼で絶交された身の上であるから。人々との交際は不生の仏心でするならば、何も不都合は起こらないのであるが、私は気癖ばかり強かったので、今まで何千人に絶交されたか分からない。(私からの絶交はほとんどないが、自慢にもならない。)
 まったく、絶交は身から出た錆である。


34.自分で自分の批評ができなくなった
                                       於天神930531/1510
 人間に進歩があるとしたら、それは盤珪のいう「法眼円明」の方向だけだろう。江戸時代の姦夫姦婦は重ねて叩き切って四つのバラバラ死体にしたが、今は姦通罪すらない。それが進歩かというと、私は首を振るしかない。現代人はだらしなくなっただけだと思う。 7年前はアイウエオをやっていた子が今ではABCをやっている。進歩であろう。昔は火打ち石を使っていた。今はライタ−。進歩だろう。しかし、人間が生まれてきた真の目的から見ると、それは進歩でも退歩でもない。生活条件が変わっただけである。知識が増えたというだけだ。
 それにしても、私は一年前の私がどんなことを考えていたかを知りたくなって、古いフロッピ−ディスクを出してみた。次のような文章があった。それを読者とともに読んで、今の目で私の批評を書き添えたいと思う。

あなたに!
                                        於天神920408/0101
 あなたに話したがっているのは、あなたのなかのあなたです。
 だから、この手紙の最後の行の署名は「あなたのなかのあなた」としましょう。
 万一、私が署名を忘れたら、最後にご自分で、あなたの署名をしてください。それは、あなたの好きな署名で結構です。どんな名前でも、またシンボルでも、それはやはり「あなたのなかのあなた」という意味です。私にも地上生活向きの名前はあり、今この世で使っている身体があり、それに添った年齢もありますが、そういうことはあまり必要ではありません。私は私というものをあまりあなたに印象づけたくありません。私が誰であっても、それは本当にどうでもいいことです。だって、私はどこまでも「あなたのなかのあなた」なのですから。
 あなたのなかの好奇心が、私のアクセサリ−、つまり、名前や肉体や職業や家族や国籍や、その他の無数の属性や形容詞を求めるのは自然ですが、それはやはりどうでもいいことです。
盤珪不生禅