ここらでインチキをやって、大衆をだまくらかすところに、宗教商売が発生します。宗教屋さんは大金持ちになったり、権力を握ります。しかし、大衆の幸せはいつも後回しです。宗教などというものは、そのうち古代の遺物になります。宗を立て、派を作り、教えるなどという面倒臭い手順は21世紀には不要になります。あなたには私がいます。それだけで充分だと、お考えになりませんか。 今、夜中の2時半です。私にも食業があります。それを徹夜でやろうなどと考えて、先ほどご飯を食べて、エネルギ−を補給しましたが、「私のなかの私」にはその気がないようです。それよりも、あなたにお話をしていたいようです。しかし、人間ですから、もう寝ようかななどと考えているようです。
 食業はいつでも出来るのです。会社に行くのもいいですが、絶対に行けというものでもなさそうです。サラリ−マンでなくとも立派に生きている人がいます。マザ−テレサみたいな聖女の名前を出したって仕方がありません。あまり参考にはなりませんから。一人でコツコツ釣竿を作っている人もいるし、毎日パチンコをやって暮らしている人もいます。どれが上等で、どれが下等かという品定めをしたくありません。そういう価値判断の基準は世間に山ほどあります。世間にもたれたい人はそういう基準を捜したらいいのです。私はそれに飽きてしまっています。結局、何の足しにもならないからです。
 気が切れました。またいつか語りましょう。

                    あなたのなかのあなた
 [現在からの自己批評]さあ困ったな。難しい気もするし、分かりやすいようにも思える。思想というものは任意の一点で発生するが、それなりの必然があるのだろう。今走って行った車に踏みつぶされた毛虫にも何か大切なものがある。宇宙万物、無駄なものは一つもないし、みな神さま(仏教なら法)によってそこにあるものだから、これは要る、これは要らないとか、毛虫は汚いから殺せ、蝶々は奇麗だから取って置こうというわけにいかないのだ。で、私は以上の二つの文章にノ−コメント。


35.水と火

 瞑想帽の電話の次に、緑が丘小学校の旧友から電話があった。脚の病気で気が弱くなっていた。「人生の無常ばかりを感じるよ」と言っていた。そのM君に、「来れたら九州にいらっしゃい。ゆっくり温泉で話そうよ」と励ました。私だってウツのときは同じようなものだが、今朝は幸い元気がよかった。電話が切れてから、追っかけて手紙を書いた。「失業状態は来月からなくなるから、大金ができたら君に旅費を送ってあげたい。」65万のサラ金崩しが先だから、それが出来るかどうかは分からない。しかし、いつも祈る。神さまに力を貸してくださいと頼むことにしている。
 仏教にもいろいろあって、創価学会などでは、願掛けをするときには、長い勤行のあとで願いをご本尊に申し上げるということだ。普通のお寺なら、お賽銭を捧げてから口の中でモグモグ言えばそれでいい。ところが、同じ仏教でも禅宗にはそのようなものがない。「欲しい惜しいの欲念は餓鬼の縁」だから、その欲念から解脱しようという人だけが禅の門を叩く。故に、禅は庶民には向かないと言えるかもしれない。
 しかし、「惜しい欲しい」は娑婆の大部分の人間の関心事であるから、弘法大師は病気を癒し、水不足に困っている人たちには水脈を教えてやった。観音経が大衆に迎えられたのは観音菩薩の奇跡的救済力が信じられたからである。ご利益を一切否定したら、ほとんどの宗教はこの世から無くなってしまうだろう。
 私はこの辺で、2ヵ月前の私の文章を出してみたい。私は御利益について、そのころどんなことを考えていたか。

二つの大罪                                           十菱 麟
                                        於天神930307/1929
 罪と罰はあらゆる人間社会に存在してきた。それは歴史始まって以来のことである。「法三章」のみという時代が、昔のシナの漢という国にはあった。それは殺人と傷害と窃盗のみを取り締まったものである。そのなかで、傷害は殺人の軽い段階のものと考えれば、残るのは「殺し」と「盗み」(強奪も含む)だけとなる。
 宗教または神の観念がなかった古代社会というものは、ちょっと思いつけないが、いわゆる道徳や倫理の源はみな宗教的なものと思われる。現代の日本社会には、新興宗教を含めて、真に宗教的な生き方は影を潜めているようだが、「殺し」や「盗み」に対する怒りと反発だけは、民衆のなかにチャンとある。勧善懲悪は民衆に喜ばれる映画や劇の中心思想である。そして、それは健全な社会の舵輪だと思うので、それについてはここで別に言うことはない。
 しかし、肉体から離れたあとに私たちが行くところが、地獄は別として、臨死体験のデ−タが物語るような結構な天国みたいな場所とすれば、そこには「殺すべき命」がないし、「盗むべき財物」もない。殺されたり盗まれたりすることへの忌避感がないのだから、もちろんこれに関した犯罪もありえない。実に、この世に存在するかぎり、殺しと盗みの罪は人間に付きまとったようである。ユダヤ教の十戒や仏教の五戒・十戒など、世界中の宗教には破ってはならない掟が多々ある。豚肉をイスラム教徒は食べてはならないし、ヒンドゥ−教では牛は食べられない。飲酒はイスラム教でもヒンドゥ−教でも禁じられている。しかし、キリスト教ではイエスその人が婚礼に招かれて葡萄酒を飲んだし、酒が足りなくなればそれを追加するという奇跡も彼は行なった。今のカトリック教でも、聖餐の一つとして神父が葡萄酒を信者に与える。そのため、アルコ−ル依存症者が神父たちに多いのは、周知の事実である。
 仏教においては、法華経に見るように、修行者は女に白い歯を見せてはいけないし、第三者不在の場合には、女と二人で話をしてはいけないし、権門や富豪に接近してもいけないと、なかなか厳しい注意がある。
 世間の法律というものは、たいてい宗教的戒律が世俗化したものと思われる。孔子は、幼いときから男女は席を同じにしてはいけないと戒めたが、これは特に宗教的なものではないとしても、ヒンドゥ−教やイスラム教では、宗教的儀式で、男女がまぜこぜになって座ることはないようだ。神道は世界の諸宗教とずいぶん趣を異にし、男女のあいだの倫理(人の道)については大まかであり、飲酒についても、神主がみずから信者に分かち与える神酒(おみき)がある。あれはナオライ、つまり「直り合い」(直会と漢字で書く)のため、懇親のために宗教指導者が許し、むしろ勧めたものである。
 道徳でも宗教的戒律でも、種々雑多に分かれるが、根本は前述のとおり、「殺し」と「盗み」の二つの大罪から派生するもののようである。
 強姦は女の貞操を奪い取ることであるし、悪い政府が課する重税も盗みか奪いの一種である。20世紀末のこの地球上には、相変わらず各地で戦争が続けられているが、それも殺しと盗みが中心になっている。
 1993年2月に、私は印度に半月滞在した。「印度」の二字を、私は「度を印する」と解釈している。「度」は済度の度、彼岸に「わたす」ことである。悟りの世界に渡ったかどうかを印可(よしと証明する)するのは、あの国の使命だと私は思っている。過去に釈迦が出て、日本人の精神生活を大きく変えた。今の日本は無宗教のような国になっているが、仏教が盛んだった頃の日本は、極めて宗教的であったと思われる。
盤珪不生禅