盤珪不生禅
 釈迦が生まれた素地はバラモン教やヒンドゥ−教であった。釈迦は一種の宗教革命家であり、古くなりすぎた印度教に新風を吹き込み、素晴らしい世界宗教を創造したが、今の印度には仏教の痕跡は僅かである。バラモン教はカ−ストの最高階級であるバラモンによって形成された宗教であるが、今はその母胎のヒンドゥ−教が8億の印度人の大部分の精神生活を支えている。イスラム教徒は少数派にしか過ぎない。
 過去にヒンドゥ−教とイスラム教の王たちが統治していたころのインドは、あるいは豊かだったかもしれないが、侵略者の英国は百年に満たない征服期間中に、あの貧困をどうにもできないで終わった。ガンジ−以後のインドの歩みも実にのろいと思わざるをえないというのが私の印度体験だった。
 盗みは日常茶飯のことかもしれないが、印度には暴力を見なかった。夜中に喧嘩をしていたのは犬たちだけだった。殺しはカルカッタのような貧困で荒れた都会か、回教と印度教のあいだの殺し合いがあったボンベイのような特殊の歴史を背負った都会だけのような印象を持った。警察官を大量に雇う経済力がないあの国には、交通警官を少数見たくらいで、バンガロ−ルのような300万都市でも、パトカ−など一台も見なかった。
 印度には神人・サイババがいた。私と同い齢で、彼自身の予言によると、93歳でこの世を去り、8年後に連続三度目の転生を来世紀に行なうと言う。彼の左の頬には大きい黒子があった。チャップリンは左の唇の上にあったが、サイババはもっと上である。左は世間向けの顔である。いろいろ考えた。
 盗みの一種に密輸がある。サイババによって改心した50代の元・密輸犯人に会いに行った。サイババの写真を載せた小さい石から、際限なくアムルティ(甘露)が溢れていた。それを拝みに来る人たちの献金で、その老人は小さい孤児院を経営していた。16人の孤児がいて、男の子たちは裏庭で草をはんでいる雌牛から乳をしぼって、それをおやつに飲んでいた。

 二つの大罪も、サイババが三度目の転生を、あの孤児院の横を流れる聖なる川・コ−ヴェリの流域に果たすとき、大幅に消滅し、地球社会は大きな進化をするだろう。国境はなくなり、貨幣経済は消え、裁判所も刑務所も不要になると私は思っている。再臨のキリストの時代である。そういう大変化が、私にはすぐ先の幕明けに感じる。あらゆる罪は神の大愛の前には、霜のように消える。罪と罰の世界は長かったが、すべては悪夢となるのだ。
                         930307/2208完                                       
 [現在からの自己批評]御利益のことはあまり考えていなかったようである。ただ一つ、アムルティ(甘露)のお陰で一つの孤児院の経営が成り立っていたということが書かれていた。しかし、あの頃の私は脱肛と鬱病と貧乏で苦しみぬいており、その三つを除きたまえと祈っていたのは事実である。サイババの本を書いたり祈ったり、確かに大変だった。それが小康を得てから、この盤珪の本を書き出したが、進行中にまたいろいろの悩みに見舞われたことは、すでに書いたとおりである。四苦八苦は人生の付き物だと、福島一雄兄も書いてきてくれたが、苦あれば楽ありというのも本当だ。苦と楽のシ−ソ−ゲ−ムを何度も生まれ変わって体験しているうちに、こういう愚かな繰り返しから最終的に脱出したいと思うようになってから、真の菩提心が生まれるのだろう。それまではどうしても苦という火と楽という水によって、鍛練されねばならない。娑婆はまことに溶鉱炉を備えた製鉄所のようである。


36.神通力

 仏教には仏と菩薩が持つとされる六神通がある。それは次の通りだ。
     1.天眼通(テンゲンツウ)
     2.天耳通(テンニツウ)
     3.他心通(タシンツウ)
     4.宿命通(シュクミョウツウ)
     5.神足通(ジンソクツウ)
     6.漏尽通(ロジンツウ)
1)はあらゆる世界の事柄を自由自在に見通す知恵の働き。
 2)は同じく世界万物の消息を聞き分ける能力。
 3)は他人の考えを立ちどころに知る能力で、今でいうテレパシ−に近い。
 4)は因縁による運命を知る能力。
 5)は世界中どんなところにも瞬時に移動できる能力。
 6)にはさまざまの解釈があるが、私としてはよく飲みこめないので省く。あらゆる人の因縁を無にする能力という解釈があることだけを述べておこう。
 この6種類の通力について、盤珪はすこぶる簡単な扱いをしている。次を読んでもらいたい。(岩波本、P19〜20。)
ある人、問うて曰く、みな人が申すは、禅師には他心通がござると申すが、さようでござりまするかといふ。師こたへて曰く、わが宗にそのやうな奇怪なことはござらぬ。たとへござっても、仏心は不生なものでござるところで、用ひはしませぬわいの。見どもが皆の衆の身の上のこと批判をしてきかせるによって、他心通があるやうに思はしゃるれども、身どもに他心通はござらぬ。みなの衆と同じことでござるわいの。不生でをれば諸仏神通のもとでござるところで、神通をたのみませいでも、一切事がととのひて、埒が明きますわいの。いろいろさまざまの脇事を言はいでも、不生の正法は、みな身の上の批判ですむことでござるわいの。
「法眼円明」であった盤珪禅師にはもちろん他心通は備わっていたと思われるが、彼はそういう神秘不可思議なことに興味を持つこと自体を「わきごと」と考え、あっさりと否定したのだ。不生が「諸仏神通のもと」と言ったのは、不生の徳としてさまざまの神通もおのずから備わると言ったのに等しいが、仮に他心通があると答えたならば、質問者は「しからば神足通は?」と限りなく食い下がったかもしれない。「そのような奇怪なこと」と言って質問そのものを否定したのは賢明というよりほかはない。
 また、神通力を仏道修行の目的とするような邪道に陥らないように戒めたものでもあろう。現代はオカルト・ブ−ムということで、神通力に興味を持つ人が増えているようだが、正しい求道には関係のないことである。この神秘力は仏と菩薩が所有してこそ衆人を救う助けになるものだが、五欲(財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲)のかたまりである凡夫が万一苦行によってこのような力を具えたら、それは魔力として働き、本人をも周囲をも破滅させることだろう。
 因みに、現代人のなかでこの六神通力を完全に具えた人というと、サッチャ・サイ・ババ以外に私は知らない。諸国の行者に幾つかの通力を持った人はいるかもしれないが、その行者の霊的品性の段階が仏菩薩に等しいかどうかを問うならば、暁天の星のように稀であろう。