メーヘル・ババ序曲
から印刷して、マトさんに頼んで、それをコピーしてもらうという仕事らしい仕事をしたほうが、まだ人間として息がつける。どちらにせよ、お金に関係のない仕事なのだが、メーへル・ババについては何も書けないのだから、これはどうしようもない。何で、『メーへル・ババ序曲』などという本を書こうと発心したのかも分からなくなっている。
 現実生活においては、灯油が切れかかっているし、それについてもどうしようもない。昨夜は大阪の大工・王仁から電話があった。「気功の仕事は流れてしまったよ」と言ったら、彼は嬉しそうにしていた。「また、貧乏生活に逆もどりですね」と言って、同情もしてくれない。それはそうだうう。彼も独身ではあるが、100万もの借金を抱えている30男だから、自分の仲間が増えたと思って喜んでいるのである。それを責める気は全くない。彼が喜んだことで、私も満足している。
 朝、目覚めたときにふと浮かんだ考えは、「私の履歴書が非常識だったから、中川雅仁さんは私を嫌ったのではないか」という考えが浮かんだが、その考えを突き詰めても何にもならないから、それを捨ててしまった。要するに、乞食を16年やったとか、子供が22人いるというようなことを履歴書に書いたのが、彼を不安に陥れたのではないかと思ったのだ。彼に嫌われて仕事が流れてしまったのは事実なのだから、それについてあれこれ考えても仕方がないと思った。彼を恨んだり不足に思う気持ちが湧かないことだけは、有難いと思う。サイババがこの挫折を通じて、何かを私と愉美子に教えてくれ、何か新しい場の展開を用意していてくれるのだろうと思うばかりである。そんな具合に、私は相変わらずサイババに頼っているようだし、まるで訳のわからないメーヘル・ババに、帰依の対象を切り替えるわけにもいかない。帰依という概念も、メーヘル・ババにあっては、その意味合いが微妙に変わってしまうし、恩寵といっても、メーへル・ババの場合は、物質的恩恵や奇跡は脇に追いやられてしまい、人間の努力では到達不可能な「神の愛」の施与ということに変わってしまう。
 二人のババはともに宣伝やクルセードの必要はないと言い、人類の一人一人に直接に働きかけるから、中間教師や助手は要らないと言い切っている。二人とも自分はアヴァタール(神の化身)だと言い、サイババは来世紀には三度目の人身を取ると言っているが、メーへル・ババは700年後にまた下生すると言っている。アヴァタールは何人いても差し支えないとは思うが、サイババの信者が彼に「メーへル・ババはどういう人ですか?」と尋ねたときに、サイババが「彼はジョーカーだよ」と答えたために、サイババ帰依者は、「そんな冗談を言う人のことは無視しよう」と思っているし、メーへル・ババの信者は、サイババのことを、人が神に至る七つの段階のどこか途中に位する奇跡のうまい聖者だくらいにしか評価していないから、この二つのグループの信者は相交わる点がない。
 私は昭和30年代にメーへル・ババのことを知り、彼を通じてシルディ・サイババのことも知った。メーヘル・ババの霊的覚醒に5人の「完成の大師」が関与し、シルデイ・サイババは彼を生き神として認知したという歴史的事実が、メーヘル・ババ側から明かされている。したがって、メーヘル・ババの信者はシルデイ・サイババを尊敬しているが、サチャ・サイババがシルデイ・サイババの生まれ変わりだということを信じていないようである。
 1894年2月25日から1969年1月31日までのメーヘル・ババの生涯には、さまざまの理解しがたい出来事が起こった。しかし、彼のことは日本ではほとんど知られていない。東京オリンピックの前の数年間、私は『AUM』という雑誌を刊行し、メーへル・ババの紹介に努めたが、ある日の夕方、八王子駅の雑踏のなかで、彼との「合一体験」があって以来は、私の関心は離れていた。その後5年たって、メーへル・ババは他界したが、その期間に「日本のリン・ジュービシはどうしている?」と、秘書のアディ・K・イラニに下問されたことがあったと

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いうことは、のちにイラ二から聞いたことがある。それから30年経過したが、ときどきは彼の本をひもとくことはあった。1988年からサチャ・サイババへの埋没が始まったが、苦しくなるたびにメーヘル・ババの本を読むことがあった。言わば、私の意識は二人のババに分裂していたのである。
 サチャ・サイババは現在、肉体をまとって今の人類に大きな影響を及ぼしているのに対し、メーへル・ババは肉体を捨ててからすでに25年、サイババの信者よりも遥かに少ない信者の記憶に生きているにすぎない。メーへル・ババは人類の4分の3の死滅を予言したが、サイババはそのようなことは何も言わない。そのせいか、サイババ帰依者たちは世紀末の天変地異については懐疑的であり、人類の未来に関してはむしろ楽天的である。私は二人のババのあいだに挟まっている恰好であるが、メーへル・ババについて声高に熱心に語り出すという気がどうも起きない。私が若い頃にメーヘル・ババと「合体」したと感じたのは、錯覚だったのかもしれないと思うばかリである。今日になって、メーヘル・ババとの距離が絶大であることを自覚し、完全にお手上げの状態である。この先、意識が変われば、この本を書き続けるかもしれないが、今のところ全く見当がつかない。



                       在天神940217/0554

 メーへル・パバがメルワンという名で、母シリーンの次男として誕生したのは1894年。私の亡父トービス星図はその3年後の明治30年に生まれているから、メーへル・ババの生年は明治で言えば27年である。日清戦争勃発の年に当たる。そして、没年の1969年は昭和44年。私がたま出版から『起能力の秘密』を出したころだ。そして、昭和46年には、千葉県我孫子の寓居を捨てて、私は16年間の連続飲酒行乞期に入る。
 その前、東京にオリンピックが開かれた年に、昭和天皇は全世界から集まった人々にサンキューとあいさつをした。その39が昭和の年号だと記憶している。マッカーサがその天皇に敗戦後一対一で会って、「自分の身はどうなってもいいから、日本国民を救ってくれ」と言った天皇のことを「無私の元首だ」と言って激賞した。ヒットラーやムツソリーニのような元首とは質が違うと感心したのである。故に「無私」の天皇。64の西暦年号が昭和39年になる。
 その1964年の夏に、私は静岡県富士宮市で「幸福心理研究所」の看板を出して、超心理学の実験体得の道場を経営していた。私は38歳。その数年前に、私は目黒区柿の木坂で、山岸会の影響のもとで一体生活のコミューンをやっていた。不倫の非難を浴びてスブド同胞会から追われた私は、海外の友の紹介でメーヘル・ババを知った。複数の女性関係で悩んでいた私は西インドのメーへル・ババに手紙を出した。彼は多忙であったはずなのに、秘書アディ・K・イラニを通じて私に返事をくれた。「妻の数は問題ではない。ゼロであっても、無限数であっても、君がその妻たちを公平に正直に愛していればそれでよいのだ」と。私はその思いがけない返事に安堵し感動し、メーへル・ババの著書を片端から読み出した。そして、自分の位置から神との

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3.最初の接触