融合に至るまでの途方もない無限の距離に絶望して、死ぬほどに悩んだ。その気息奄々だったときに、あの八王子駅頭の混雑に、私は彼の声を聞いた。「否め!」その有無を言わさぬ強い声の衝撃に、私はただちにメーヘル・ババに関わる私の観念世界をすべて「否定」した。その瞬間、私の全身に無限の工ネルギ−がみなぎった。私は悟りを開いたと思って、欣喜雀躍した。その工ネルギーで私は無一文だったにも拘らず、埼玉県上尾市の家を捨てて、富士の南麓に道場を構えたのだった。
 道場には内縁の妻ヨシ工とその娘・曜子がいた。他に十数人の道場員がいた。のちにたま出版に入った韮沢潤一郎もいた。わずか3ヶ月の道場であったが、UFOの母船が私たちの頭上に止まったり、窓際に飛来したりした。久保田八郎(歴史的人物として、すべて敬称を略す)の弟子でもあった韮沢が、それらのUFOを呼び寄せたのかもしれない。道場では、神棚lこ供えてあった清水が酒lこ変わるという不思議な事件もあった。東京から道場を訪問して、そのまま入門した越後の乙女・織子を私は正妻に定めた。二度日の正式結婚である。年齢差は16歳。
 女の問題がなかったとしたら、私はスブドを出なかっただろうし、したがって、メーヘル・ババに打ち込むこともなかっただろう。
 昭和47年(1972年)には、すでに行乞生活に入っていた私は、滋賀県栗東町に道場を構えていた。牧野元三がイタリアからTMの布教師として日本に帰り、私に会いにきた。TMのイニシエーターとして、彼は最初の日本人だった。彼は読売新聞社から私が翻訳を出した『超越瞑想入門』を懐に入れて渡米し、マハリシ・マヘッシュ・ヨーギからイニシエーションを受け、そのままマハリシlこ付き従ってヨーロッパを回ったということだった。彼lこしても、もし私に会わなかったとしたら、そのままTMの日本幹部になったかもしれない。しかし、彼は私に会ってTMを捨てた。



                                        在天神940217/0741

 いつだって貧乏をしていたような気がする。あいだあいだに幾らか豊かだった時期もあったが、それは息継ぎの短い期間だったにすぎない。アメリカ留学時代は、日本の一流会社の課長並みの生活をしていた。スウェーデンボリのラテン語⇒英語訳全集を買ったり、最新のタイプライターを買ったりした。しかし、日本の貧乏生活に舞い戻れば、それらはただちlこ換金されてしまった。生まれてから50数回転居をして、あちこちに置き捨てた洗濯機、テレビその他の家具の数は覚え切れないほどだ。ここ人□2800人の清川村に住みこむ前は隣の三重町の山奥に住んでいた。あのころ、TMの日本支部の代表が読売新聞社の『超越瞑想入門』の翻訳著作権を買いに来た。安値の100万円で手放して、その現金のうちから買ったビ二一ル製洋服収納庫は、もう10年も経って壊れかけている。
 元三が栗東町の道場に来たときも、同じような貧乏であった。ZA(財上げ)という乞食の秘訣を、早稲田を出たばかりの当時の愛人・カズコが元三に伝授した。私が彼に与えた最初の任務は、「琵琶湖を一周し、あちこちの村や町からZAして、1カ月分の家賃を調達して来い」という命令だった。何日もかけて一周をしたが、必要額が上がらない。最後の町(大津だったか)で困り果てていたら、ある人を通じて所要の金額がピタリと上がった。それ以来16年、彼は私とともに、また単身で日本中を回り、ZAで苦労をした。
 その元三lこ、私はたびたびメーへル・ババの話をし、彼は英語をよくこなしていたから、原書からメーヘル・ババの研究をしていた。しかし、難解至極だったから、彼は途中で読むのを諦めてしまった。ただ、その研究から、彼はシルデイ・サイババのことを知った。それがきっかけとなり、彼はニューヨークでサチャ・サイババの帰依者になったのだ。1988年のことだ。
 メーヘル・ババがシルディ村のサイババに会ったのは、1915年12月だった。メーへル・ババは21歳の青年。シルディ・サイババは77歳の老人。折しも、サイババは御神輿に乗せられて、村中を行列していたときだった。メルワン(メーヘル・ババの戸籍名)は群衆を掻き分けて、シルディ・サイババの面前lこ出て、路上に平伏した。挨拶が終わって立ち上がったときlこ、サイババは青年メルワンをじっと見て、「パルヴァルディガル!」と叫んだ。この言葉の意味は「宇宙を支える全能の神」ということだ。

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 すでに脱稿していう『サイババ発見』の終わりのほうに、「宝石泥棒」という章がある。それは、泥棒がその宝石はシルディ・サイババから貰ったのだと虚偽の申し立てをしたために、警察官がサイババの所に来て訊問をした話である。「どのカーストに属するか?」と尋ねられたサイババは、「パルヴァルディガル」と答えた。もちろん、そんなカースト名はありはしないが、自分は最高宇宙神の種族だと言ったのである。シルディ・サイババが看年メルワンに投げた神の名は、一種の印可であった。メルワンはシルディ・サイババと同じ「種族」だと認められたのである。そのメルワンが、のちにメーヘル・ババ(仁慈の父)と呼ぼれるようになり、自分を the Ancient One(古代の者、古くから存在する者)と呼び、また the Highest of the High (高き者のうち最高の者)と称えた。
 シルディ・サイババと「同族」のメーヘル・ババが世を去った1969年1月には、前者の再来身であるサチャ・サイババは、私と同じく、満で32歳になったばかりである。
サチャ・サイババとメーヘル・ババとの地上での触れ合いは記録されていない。ただ、在世中のメーへル・ババがシルデイ・サイババの記念寺院に招かれたとき、メーへル・ババのためlこ用意された椅子に座らず、床に座ったまま、「シルディの老人はまことに偉大な神の人だった」と讃えたという記録はある。メルワンを開眼させた大切な5人の「完成の大師」(サドグル)の一人として、シルディ・サイババは懐かしい恩人だったのである。




                                        在天神940217/0830

 ファン・ヒーターはごうごう鳴っているが、火燵からはみ出した私の足は冷えている。靴下を二枚重ねて履こう。左右色違いだ。家族数が多いので、靴下の片一方が無くなってしまうことがよくある。そんなのが7〜8足ある。世間の人は捨ててしまうのだうう。私は構わず色違いの靴下を履いて旅lこ出ることがある。1988〜89年の冬3カ月、私は鉄格子の嵌ったアルコール症専門の大分県日田市の精神病院lこいた。牧野元三がニューヨークのスーパーマーケットで買った靴下を送ってくれたりしたが、数が足りないので、私はよく色違いの靴下を履いて病院のなかを歩いていた。患者たちはゲラゲラ笑った。
 今年の正月に奈良県榛原の山中の座禅小屋で大阪の青年たちと泊り込み研修をした帰
りに、私たちは町の大衆食堂で食事をした。私の前に出された味噌汁があまりに熱かったので、私は女将(おかみ)に、「猫舌なので、氷をすこしください。冷ますから」と言った。いつもしているような普通のことだったが、傍らにいた役者兼大工の王仁ヤンがハラハラしたと、あとで聞いた。「へンな人と思われはしないかと、先生のために心配したのです。」
 ヘンな人にいつのまにかなってしまった。奇人は世間に受け入れられないから、生活も困窮する。いちおう、これは人生の方程式だろう。しかし、そうなってしまったものはどう


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メーヘル・ババ序曲
4.シルディ・サイババの呼びかけ
5.父シェリアルの生い立ち