メーヘル・ババ序曲
しようもない。私の父も、遠藤周作の『日本奇人伝』のなかに収められている。親子二代の奇人となってしまったのか。しかし、奇人といえば、二人のサイババとメーヘル・ババほどの奇人はちょっと見当たらないだろう。二人のサイババについてはすでに充分に書いた。今はメーヘル・ババに集中しよう。なんで、人間は奇人になるのか。サチャ・サイババのように、生まれながらに奇妙な人もいる。シルディ・サイババやメーへル・ババのように、初めは普通だったのにだんだん奇人になる場合もある。「自分は神だ」と公言すれば、奇人どころか狂人と見なされてもおかしくないが、霊的な国柄であるインドでは、二人とも精神病院に収監はされなかった。サチャ・サイババは悪霊の憑依(ヒョウイ)を凝われたが、メルワンの「自覚」後の行状は、誰が見ても精神異常であろう。彼の生い立ちを語ろうと思う。
 私の父・トービス星図が奇人だったように(息子の私は父を常識人と見ていたが)、メーへル・ババの父も相当の奇人だった。5歳の女の子を見て、「この子を妻にする」と言って、実際にその子の成長を待って結婚したのだから、そのこと一つを挙げても、常人ではない。
 八字ひげの写真が残っているシェリアル・ムンデガル・イラニは、1853年にイランに生まれたゾロアスター教徒だった。この年、シルディ・サイババは15歳で、人知れずインドのどこかで修行をしていた。(『大聖・シルディ・サイババ小伝』参照。)
 メーへル・ババの父・シェリアルが生まれた家族は、すでに神秘家の一族だった。シェリアルの父・ムンデガルは、ゾロアスター教徒の霊を祭った「沈黙の塔」の管理人だった。シェリアルが5歳のとき、彼の母は死んだ。幼児の世話をする人がいなかったので、ムンデガルはその子を連れて「沈黙の塔」に通っていた。幼児は祈りや祭式を見て育った。13歳になったシェリアルは、神秘家(ミスティックという原語は、ただ神秘不可思議を求めるというオカルトまがいの意味ではなく、神との合一を求める修行者を指す)の生き方にあこがれた。神を求めて、シェリアルは出家し、イラン中を托鉢僧として放浪した。7年ものあいだ、彼は徒歩であちこちを旅し、どこにでも寝て、空腹になれば食物を乞うた。何年たっても神と巡り会うことができなかったシェリアルは幻滅して、インドに移住するという計画を立てた兄に同行することに決めた。長い苦難の旅を経て、兄弟はボンベイに着き、そこで二人は就職した。しかし、シェリアルの仕事は長続きせず、彼の求道心は燃え盛るばかりであった。彼はまた当てどもない徒歩旅行に出て、カラチ(今はパキスタン領、アラビア海に面する)を手始めに、インド中を放浪した。
 ある日、砂漠を歩き続けて疲労の極に達したシェリアルは、どうにもならない喉の渇きで失神してしまった。ふと気がつくと、二人の男が立っていた。ファキール(回教托鉢僧)の老人と青年だった。彼らは革袋から水を彼に飲ませた。その一人がシェリアルにこう言った。「なぜ、君はこんな所に来たのだね? そんな馬鹿な行動をして、神さまに厄をかけるものではないぞ。とにかく、ここから真っ直ぐ歩いてゆきなさい。すると一軒の小屋がある。そこに老人がいて、何か食物を君に恵んでくれるだろう。そこから反対側にゆけば、町に入るよ。」シェリアルは頭を上げて、その二人にお礼を言おうとしたが、そこには人影がなかった。広漠たる見回しても、人間どころか草木も生えていない砂漠だった。「ああ、あの人たちは神のお使いだ」と合点したシェリアルは、そこに膝まづいて神に感謝の祈りを捧げた。



                       在天神940217/0932
 私の行乞も、元三に会う前にも何年かあったから、合計20年を越えているだろう。砂漠で卒倒するというような激しい苦労はなかったが、二度目の妻・繊子との6カ月無銭旅行では、オイデヤスの京都の辛かった一日が忘れられない。外側に見せる京都人の愛想よさと、奥のシワンボウとは裏腹で、どこに行ってもお金が上がらない。持病の脱肛が悪化して、血と膿がズボンを濡らすのにも耐え、痛いお尻を引きずって、やっと夜更けの京都駅にたどり着いた。駅の暖かさにホッとして、ここで野宿と決め、二人分の古新聞を寝床用に集めた。そこに、鼻の潰れた中年男が近づいてきた。いやに親切で、いろいろ自分の境遇を語ってくれた。若い頃、空手の達人だったためにうっかリ人を打ち殺して刑務所に入れられたが、牢内で悔悟して毎日観音経を浄書していたという。そのお陰か、早めに出所をゆるされ、今は駅裏のバタ屋部屋で生活をしていうという。「とにかく、俺のところで寝ろよ」というので、素直に彼に

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ついていった。万年床の敷いてある臭い2畳ほどの部屋だったが、バタ屋さんの人情が身に染みた。彼は友だちのところで寝ると言って、どこかに行ってしまった。新婚だった私たちは、そのバタ屋布団にくるまって眠った。朝になると、彼(バタ屋長のような格だった)が現れて、「日本中どこに旅をしても、みな同じだよ。京都で旅をやめて、おれたちとバタ屋をやらんかい。気楽でいいよ」と忠告してくれた。しかし、40代そこそこの私は16歳下の若妻を伴って、やる気充分だったから、すまないけどもとその誘いを断わった。彼はお餞別にと、よれよれの百円札を何枚か私に渡し、京都七条あたりの安い食堂を教えてくれた。あの恩人、今頃どうしていることやら。京都駅の裏も、このあいだ見たら奇麗なビル街になっていて、バタ屋部屋の形跡はどこにもな分った。
 メーへル・パパの父シェリアルは神を求めての乞食行脚だったが、鹿児島の山川温泉まで無銭旅行をした私は、新妻の鍛練を旅の主目的にしていたようだ。長女・真実(まみ)は乳飲み子だったが、武蔵府中の道場からまず訪れた信州で、女弟子の七曜にその子を預けたきりの二人旅だった。織子は二番目の子を身ごもっていたから、宮崎県延岡市あたりでは悪阻で青くなりながら、懸命にZA托鉢をやっていた。歴史的には、東京オリンピックのあとで、土佐山田に道場を持った時期に続く。
 砂漠を突破したシェリアルは、山越えの旅を続けていたが、ある老人が瞑想に眈っているところに行き会った。彼が聖者に近づいて挨拶したところ、老聖者はおもてを上げて、20代のシェリアルに次のように言った。「何か欲しいのか?」「いいえ、何も要りません。」それは奇妙な返事だったが、老人は満足した様子だった。シェリアルは合計10年に達した長旅をしたが、どうしても神を発見することができず、ついに断食と不眠を誓って、40日間の瞑想に入った。しかし、彼は40日の行をやり遂げることができなかった。30日も経たないうちに、不思議なことが次々と起こり始めた。或る晩のこと、疲れ果てた彼は或る川のほとりでウトウトとした。そのとき、大きな明瞭な声が彼に次のように語りかけた。「おまえは今やっているような苦行をする運命ではない。おまえに生まれる子供がおまえの願いを成就するだろう。起き上がって家に帰るがよい。」
6.三十男が五歳の女の子に求婚