ものかということを、私が証明しても何になるのだろうか。神に逆らい、神から離れた人間の落ち行く先はこうだとでも、私は書きたいのだろうか。

 三日たって、またこの本に帰ってきた。そのあいだ、15万円のカイロプラクティックの翻訳をやっていた。日額5万の収入ではないか。20日間働けば100万になる。仕事がないだけである。
 モスクワの母子家庭。母は愉美子と同じ42歳。マザコンの夫と離婚して、10歳と6歳の娘と暮らしている。3Kの部屋代は900ル−ブル。インフレでル−ブルを円に換算しようもないが、大阪の文化住宅なら3万円を越すかもしれない。その半分以上の500ル−ブルを、共同通信の辺見庸記者が、街頭でチェロ弾き乞食をしていた10歳の娘に恵んだ。取材費である。モスクワ市民にはオウム真理教や、インドのハレハレクリシュナやヨガや、日本のドンツク日蓮宗が入りこんでいるらしい。中川雅仁さんの気功が国営病院でチェルノブイリ患者を治したのも不思議ではない。
 夜7時。たしか、朝から二度目の食事をした。シナとタイとアメリカの米を混ぜ混ぜにしたごはんだが、あまり味が違わないように感じる。5割が日本米だからだ。それにしても、もうジョルジュ・オ−サワ式の「身土不二」を言っておられない時代になっている。それをやるなら、エライ高価な健康食品を求めねばならない。それはもう金持階級の贅沢趣味になっている。愉美子は八宝菜を作ってくれたが、イカとエビが入っていた。サイババがダ−ティ−という海産物だが、もうそれを無視した。
 メ−ヘル・ババは肉食をしたい者には肉食をさせた。タバコを吸いたい人には吸わせておいた。だが、本人は菜食で、酒タバコを嗜まなかった。「エホバの証人」も回教徒も肉を食べる。サイババの純粋菜食勧告は厳しすぎる。世界の実情に合わない。日本では、肉が野菜より安いことはよくある。しかし、先のことは分からない。今から菜食をやっていれば、肉と魚が出回らなくなったとき、慌てないでもいいだろう。
 小倉の長谷川恵真さんがサイババから貰った物質化のキャンディ−を大切に保存していたら、最近ビブチがそこから噴き出たという。モスクワ市民の家にこの現象が起こったら、やはりあの宮城県の何も知らない植木屋さんが菅原三郎さんから貰ったサイババ写真からビブチが噴出して、その家は門前市をなしたというような事件が、モスクワにも起こらないとは言えない。唯物論で育てられたロシア人は、精神的に飢え切っている。だから、アサハラ・ショ−コ−にも飛びつく。
 日蓮宗もインド系であるから、元共産国の精神的飢餓を癒しているのは、すべてインドの精神文化のようである。中川気功にはあまり宗教色がなく、中川雅仁さんに秘伝を与えたのは他星人だという説もあるから、UFOもまたロシア人の心を捉えるかもしれない。 私はどうもジャ−ナリストまたは科学者の客観的な眼で、世界と自分をめぐる霊的・宗教的現象を見ているようだ。「どん底」からはいつのまにか浮かび上がったようである。

5.ピエロはやめた
                      在天神940224/2324
 世間のためにこれを書いているという気が、どんどん薄くなっている。他人にはどうせ通じないし、人間は他人の運命のことなどは本当には気に掛けていないのだと思う。かと言って、自分のために書くというのも、あまり実感が湧かない。自分を喜ばせるものを書くのは非常に難しい。たとえそれができたとしても、そうやって喜んでいる自分とはいったい何だろうかと思うと、すべてが白けてしまう。だいたい物を考えたり表現する能力が自分から来たものとは思えない。それはちょうど、私が呼吸したり空腹になるのが、自分の力によるのだとはどうしても思えないのと同じだ。やはり、私はいつも神のことを考えている。私の書くものを完全に読み切ってくれるのは神だけである。書きたくても書けないものまでも、読み取ってくれるのも神だ。私がどうしてこんなひねくれた、否定的なことしか書けないのかという実情も、奥まで理解してくれるのは神一人だ。
 その神も抽象的な茫漠とした「無」のような神ではなく、人間の形を取った神でなければいけない。すなわち、アヴァタ−ルである。イエスやメ−ヘル・ババはアヴァタ−ルだったかもしれないが、今は地上にいない。地上にいるアヴァタ−ルといえば、やはりサイババしかいない。サイババの外側の形、つまり思想とか言葉とか戒めなどが私を縛るというので、思い切って反逆した私だが、そのような「ころも」を無視して、サイの本質であるプレマ(無限の神愛)だけを見つめるならば、そのプレマしか頼るものはない。
 二日間なにも書けない状態でいて、今日になって、私は仕方なくサイババに手紙を書いた。「プレマと光とエネルギ−の送電線を切られた感じがして、何もできないようになりました。神さまを信じる力さえ奪われてしまいました。すこしでも力と光を送り込んでください」と、一枚だけ日本語で書いた。あす投函するつもりである。
 サイババを信じない人は、そんなことをして何になるかと笑うかもしれない。しかし、私の切羽づまった状態を真に理解するのはサイババ一人であるから仕方がない。世間がどう思うかということは、全くどうでもよい。この本も、世間の人が一人も読まなくてもいいのだ。著述家がよく考えること、つまり「この本は成功したのかどうか」という評価は、神のみがなさることであって、世間の評価などは完全に当てにならない。そういう世間に寄りかかった生き方では、何もできない。世間の反応で一喜一憂するのは、馬鹿げたことである。私はよそに出す手紙の「敬具」と普通は書くスペ−スに、よく次の一行を書き入れる。

          まず自分が正直でありますように!

これはお説教でも助言でも忠告でもない。これは私自身に言い聞かしているのである。他人がどうあってもいい。私が「まず正直である」ことが何よりも重要だ。そこから正しい自信が生まれるだろう。この一行で、私は神に「私が正直の道をまっすぐ進めるように導いてください」と祈っているのである。自分に対して正直であれば、その正直を神の前に見せることもできるだろう。だいたい自分自身に対して真に正直であるかは、自分には判定がつかないのである。その判定をなさるのも神一人である。神の眼で、私が正直でありますように、と祈っているにすぎない。
 だから、どこまてもいつでも、私と神との関係しかない。世間との関係は副次的なもので、私と神との関係が正直で貫かれていれば、あとのことはどうでもいいのである。
 戒めとして、人に乱暴な言葉を使ったり、人を憎んだり恨んだりしてはならないということはよく分かるが、世間の人を本気になって相手にしていれば、やはりうっかり怒ったり、憎んだり、嫉(そね)んだりしがちである。人から悪口を言われたり、責められたり、軽蔑されたりして、怒ったり不足に思ったりするのは、世間のレベルに自分を置いていて、神を忘れているからである。これは私をたぶらかすマ−ヤ−(幻妄)のトリックである。 そういう反応がこのごろ本当に薄くなった。ほとんどゼロと言ってもいい。私をおそらく
無より