無より
傷つけようと思って、何か言ってくる人がいると、「これは本気かな?」とまず不思議に思うようになってきている。昔のようにまともにそういう言葉を受けて怒ることがなくなったのである。去年の2月にサイババに会いに行ったときは、まだまだ私は怒りのかたまりだった。わずか一年間で、それが消えてしまったのは、奇跡というしかない。幼いときから、父にオコリンボウとからかわれていた「本来の」(?)私はどこに行ってしまったのだろう。やはり、サイババが吸収してゼロにしてくれたのだろう。それから、生活苦も現実的には何の改善も見られず、むしろサラ金の借り高がふくれるばかりなのだが、去年のように本気になって悩めない。解決の兆候など少しもないのだが、これはやはり意味があってこうなっているのだから、ジタバタしても仕様がないという思いが強く、これも本気になれない。
 かわりに、今日も来訪してくれた「エホバの証人」の佐保秀臣さんなどが一生懸命に心配してくれる。こちらは、彼をそんなに心配させたことを申しわけなく思うばかりだ。早く彼の心配の種子を取り去って、彼に喜んでもらいたいと思うだけだ。ひとことで言えば、私は自分の悩みから切り離されている。この「私」とは何なのか? 今までの私が知らなかった「私」である。見当がつかないので、むしろ困っている。
 本を書く動機というか、原動力というか、そういうものも変質してしまったようだ。とにかく、人を感心させたいとか、人にインパクトを与えたいとか、何らかの種類の反応を得たいという気持ちが消えている。もちろん、書いたものは読み返しているし、文意が通らぬところがあれば、日本語の文法と論理に従って訂正はしている。また、持って回ったような表現にぶつかると、なるべくストレ−トに簡潔に書き改めたりしている。訳のわからないことを書いたらいけないとは思っているが、別にそのような努力で世評の点数を上げようとしているわけではない。「外から見る眼」を気にしていないのである。
 長いあいだ露悪的な書き方をしていた私であるが、その癖もだんだん消えてゆくような気がしている。自分が特に悪党であるということを、わざわざ宣伝しても仕方がないと思っている。昔は、むしろ人を挑発して、「この悪党め!」と私を非難したり憎悪するような反発を人々の心に作りたがっていた。関心を持たれたかったのだろう。「私を愛してくれ」とは言えないから、逆手を行って、「おれを憎んでくれ、軽蔑してくれ」という回りくどいことをやっていたようである。人の注意を引きたかったのだ。言い替えれば、世間に寄りかかっていたのである。ちょうど、ピエロが観客を笑わせようと躍起になっているように。

6.ネズミの尻尾
                                       在天神940225/0017
 「自分の意志の力で、身長を1センチも伸ばすことができるか?」というようなことを、イエス・キリストは当時の言葉で言われた。そんなことはできやしない。同じように、この本の品質をすこしでも向上させようと力んでも、それは私にはできない。まったく何もかも「無より」出発した。今までの基準はいっさい通用しない、それに頼る気もない。
 人の悪い点が気になって、何か見つけると、相手が誰だろうと熱くなってそれを指摘し、その人を攻撃するようなことばかりをやってきた。しかし、いわゆる「悪」は自分のなかにあるからこそ、「他人」のなかにそれがよく見えるのである。だから、他人を攻撃しているようであって、実は自分を責め立てているということが、観念でなく奥から分かってきた。だから、これもだんだんやらなくなるだろう。自制というのではなく、自然の促しとして。ちょうど、肉食が悪いというのでやめたのではなく、現実に肉が臭くてたまらなくなって食べなくなったのと同じように。
 サイババは「べからず」を言い過ぎるから嫌いだと反発した。それで、思い切ってサイババの「べからず道」から離れたら、今度は思いがけず、「自然とそうならない道」が開けかかっている。これが大衆向きの道ではないことは、私にもよく分かる。私のようなひねくれ人間のための特別の道だろう。しかし、それは私の力で発見した道でもない。自然に生まれた道だから、この道を私に用意してくれたのは神さまだろう。「ころも」を剥ぎ取ったサイババがそれをしたと思ってもいい。「私向きの神さま」と言ってもいい。どんな名前の神さまにも「わたしはいるよ」とサイババは言ったから、それはやはりサイババだろう。他の人たちが考えているようなサイババではない。私が勝手に捉えたサイババである。そういう勝手なことをしてもいいのかと言うと、サイババは「神には無限の面があるから、自分にぴったりした面を一つでも見つけて、そこから神に入ったらいい」と許可したことがある。56億7000万どおりの「道」があるのだ。それを全部並べることはサイババもしない。少なくとも、講話や著書においてはしない。できないからだ。そのかわり、人類の一人一人に働きかけて、内側からその人に向いている、その人だけの道を明らかにしてくれる。だから、英語では「オ−・マイ・ゴッド!」と呼ぶ。昔の私は、「神は万人のものなのに、ゴッドの前にマイという所有代名詞をつけるのは、不届きだ」と言って怒っていたものだった。しかし、切羽づまれば自然にそうなる。「お隣りさんの神さま、どうか私もついでに助けてください」とは言えなくなる。
 私は形からサイババに入ってゆこうとした。だから、あちこちでジャリジャリ引っかかった。彼の中身の「愛」に素直に飛び込んでゆこうとしなかった。よく相手を見極めて、飛び込んで行っていい相手かどうかを確かめてから「愛そう」としていた。全くヘンな愛である。そんなものは愛でも何でもない。
 信仰も同じことだ。ソロリソロリと警戒しながら、だんだん信じてゆこうとしていた。盲信はごめんこうむると思っていた。サイババ自身も、「よくわたしを調べてテストして、納得がゆくようにしなさい」と言っていた。これではまるで、疑いの奨励みたいだが、私は確かにそれをやっていた。多くの文献的材料や、他の帰依者たちの「信じる姿」をよく観察して、納得がいったら信じようと思っていた。ところが、そういう客観的証拠などは何の役にも立たなかった。信じるという行為は客観的裏づけなどで出来るものでなかった。逆に、それは純粋に主観的なものだった。盲信であってよかったのだ。イワシの頭も信心でよかったのだ。信じられた人が勝ちである。インタ−ビュ−で、私の隣にいる人がサイババから黄金の指輪を出してもらったとしても、私は相変わらずサイババを信じないことだろう。それは「他人」に起こったことで、「わが身」に起こったことではないからだ。 それに「本当の信」と「物質的奇跡」とは何の関係もなかった。物質化という行為を通して、人はサイババの無限の愛に触れるから、涙を流して帰依するのである。そういう内的体験が全てであって、物質的奇跡が愛や帰依心を生み出すのではないということが、内部から分かってきた。
 私は「不良」であって、過去に罪をたくさん犯したから、サイババから愛される資格はないという牢固とした「信念」も、ガラガラと崩れてきた。そう決め込んでいた私は何ものなのだ。人間の愛を越えた「神の愛」など存在するはずはないと、深く決めていた信念、それは一つの「牢屋」である。その牢のなかから一歩も出ないようにして、そこに自分を「固定」していた。かわりに、周囲の人をそそのかし、いろいろ証拠を並べて、「きみたち、早くサイババを信じなさいよ」と「宣伝」をしていた。私より先にサイババ信者を沢山作って、それを見て満足するのが尊いことと思っていた。「自分はあとでいいのです」というのが謙譲の美徳で、そういう態度が神に喜ばれるものだと思い込んでいた。
 法華経のナントカ菩薩みたいに、全人類が成仏してからそのあとで、ゆっくり自分も成仏するのが最高の菩薩だと思い込んでいた。その他、沢山の思い込みがあった。それはみな、私の過去の宗教行脚から拾ってきたゴミクタだった。
 ダルシャンで、人を押し退けるようにしてサイババに近づこうとする群衆を、「あのエゴイストどもめ!」と軽蔑していた。「俺はあんなさもしい連中とは違うぞ。あれじゃまるで乞食ではないか」と、ゆとりを持って、貴族的に構えていた。「自分は自分の道を行くのだ。サイババなどに頼る必要はないのだ」という思いが奥に潜んでいたのだろう。それがあの「大凝視」からガラガラと崩れ出した。私の自信の「巨大なとりで」が、わずか一年で木端微塵になった。経済的困窮という手段をサイババは使った。ヒイヒイ泣いて、